呪い

「メソン・ド・ポリス」に橋本マナミが登場しました。

 

広報誌の編集者としてメゾンドポリスの住人に調査を依頼する役どころ。登場するなり住人が鼻の下を伸ばし張り切って調査。同じ依頼をしていた牧野(高畑充希)の時とあからさまに違う態度にあきれる、というお馴染みの流れ。

 

ドラマとしては分かりやすすぎるベタな展開(このあと牧野のことをしっかり立てる展開まで予定調和)で、安心するといえば安心するのだけども、いい加減こういう流れはどうにかならんのか、とはやっぱりうっすら思う。

 

それはともかく橋本マナミ。彼女が画面に登場すると「あー、出ました踏み台女優」と思ってしまう。もちろんドラマによって役どころは様々。しかし大抵の場合「いい女扱いで登場するも報われない」の一言で説明できてしまうんじゃないか。話の本筋を動かすための記号のような役割だ。間違ってもメインで出てこない。

 

橋本のキャッチフレーズは「平成の団地妻」「愛人にしたい女No.1」「国民の愛人」(すべてwikipediaより)など、「そういう役になって当たり前」と言わんばかりのものが並んでいる。もちろんそういうイメージ・雰囲気があってこそのキャッチフレーズであるし、その雰囲気を買ってドラマのキャスティングをしているわけだから、双方ともに何の問題があるわけじゃあない。

 

通常の連ドラは放送時間は正味45分。レギュラーの登場人物ならまだしも、その回のみの出演、しかもその登場人物がめちゃくちゃ重要というわけでなければ、説明する時間がもったいないわけだ。そんな中で登場するだけである程度視聴者が役回りを把握できる存在は貴重と言っていい。

 

でも我々は橋本マナミのイメージに甘えすぎではないのか。

 

このあと「確かに橋本マナミは愛人ヅラではあるが」なんて書き出しで続けててしまおうものなら、これはもう「甘え」そのものである。もちろん「愛人である人」は世の中に存在するし、「愛人をしている人」の統計を取れば「愛人ヅラ」ってのも存在するだろう。しかしそんな統計があるわけではないし(あるのかもしれないけど)、あくまで「愛人っぽい」というのは「イメージされた雰囲気」でしかない。

 

そりゃ世の中には愛人に精通した人がいて、そんな人が「橋本マナミは愛人ヅラです!」と高らかに宣言してくれればいいが、そんな機会なんかない。そうなれば「橋本マナミが愛人っぽい」というのは、全て「橋本マナミが愛人だったらいいなあ」が記号化した、いわば「週刊誌を読んでるようなガッハッハオッサンの妄想」でしかないのではないか。そんなものに我々は甘えていいのか。

 

もちろん橋本マナミを「愛人」たらしめている要素は顔だけではなく、色々ひっくるめた結果である。しかし実は決定的な要素がない(気がする)。けどドラマでは何の疑いもなく「そういう人」という記号として登場する。そういう思い込みを呪いと呼ぶのではないか。間違いなく橋本マナミには愛人の呪いがかかっている。

 

こんな断言をすると、あたかも「じゃあ橋本マナミの呪いを解いたらどうなるか」とか「呪いを解くべきだ」という話に流れると思われたかもしれない。全く違う。別に自分は橋本を呪いから解放したいわけではないし、解放したところで何かいいことがあるわけでもないだろう。分からないけど。ただ自分はここで「橋本マナミは呪いがかかっているな」ということを言いたかっただけで、それ以上でも以下でもない。そして次見たときもたぶん自分は「呪いに今日もかかっているなあ」と思うだけ。