ジュピニー

ドラマ「陸王」の劇中歌「Jupiter」は盛大にスベっているのではないか。もうこの一文だけで自分の言いたいことは半分くらい言い終わっているのですが、ちゃんと説明します。


TBSの日曜ドラマ「陸王」。「半沢直樹」を手掛けたチームが同じ枠で送る「池井戸潤劇場」の第四作(前3作は「半沢」「ルーズヴェルト・ゲーム」「下町ロケット」)と勝手に名づけ、「地上波放送亡きあとのTBSの水戸黄門」と呼ぶことにした。同じような展開、同じような感動胸倉掴み、分かりやすいカタルシス。全てどこをどう捉えても現代の水戸黄門である。*1


そんな現代の水戸黄門陸王」には、水戸黄門よろしく「印籠」タイムがある。それは、物語の山場で流れる「Jupiter」だ。元々はクラシックの名曲であり、それを2003年に平原綾香が歌詞をつけた曲として発表、大ヒット。それを今回はアカペラグループLittle Glee Monster」がカバーした楽曲がここぞというタイミングで流れる。もう「はいここで感動してくれー」と言わんばかりに流れる。


しかし、正直スベっていると思う。


もうずっと言いたくて言いたくて仕方がなかったのだけど、初回で流れたときは「まあ、1回くらいこういう演出もあるか」と思って我慢した。けど2話以降も流れるもんだから「マジかよ」と思ったし、「もしかしたらそのうち心にグッとくるかもしれない」とも思っていたんだけど、やっぱり限界だ。何度聴いてもスベっている。自分で印籠扱いしておいてなんだけど、もう水戸黄門の印籠ですらスベっているんじゃないかという感覚にすらなってくる。


そして何より自分は初回に「Jupiter」が流れたときに「おいおい、金八かよ」とすぐ思ったわけだ。ご存じの方も多いと思うが、かつて「Jupiter」は金八の第7シリーズ(薬物問題を扱ったシリーズ)でも劇中化として挿入された(もちろんこの時は平原綾香の曲)。もう自分は当時から「おいおい、この曲の使い方はスベってるな」と思ったもんだ。


このブログも長いこと書いているもんで、今公開してない昔のログ引っ張り出してきたら、2005年1月のログにこんな記述が。

何度でも言うけども「Jupiter」は余計。

10年前の自分が既に「スベっている」と思っていたものを、10年後の自分が「感動した!」となるわけがない。やはり10年後もスベっていると感じるに決まっている。なぜ10数年の時を経て、また同じスベリ芸を披露しているのか。


答えはとても簡単である。それは「金八も陸王も演出している人間が同じ」だからだろう。福澤克雄、その人である。金八の現場では「ジャイさん」の愛称で呼ばれ、平成金八シリーズの人気に尽力するも、そのドラマをよりドラマチックにするための過剰演出により、金八の脚本を手掛けていた小山内美江子が降板する事態を引き起こした原因の一人である。その過剰すぎるともいえる演出が現在の池井戸潤シリーズに繋がっていると思うとまた面白いのだけど、それはまあいい。


しかしなぜ福澤氏は「Jupiter」にこだわるのだろう。もちろんドラマチックで感動的な曲ではあるけど、お笑い番組で「ここで笑ってね」とテロップを入れるようなもんで、そんなに真正面から「感動してくれい」と言われてもスベってしまうことくらい分かりそうなもんなんだけど、である。


んでまあ、自分はこう思ったわけですね。人の記憶は五感によって鮮やかによみがえることってあるじゃないですか。例えばある匂いを嗅いだら、その匂いを嗅いだ場所や時間、シチュエーションを思い出すといった具合に。他人にはどうということもない五感の記憶が、自分には物凄い何かを刺激することがある。たぶん、福澤氏にとっての「Jupiter」はそれなんだと思う。福澤氏がめちゃくちゃ感動したときに流れていたのがこの曲なんだろう。だからつい劇中で「Jupiter」かけて感動の増幅をしたくなっちゃうんだと思う。けど他人は、少なくとも自分はそんなにこの曲で感動しないんだよねえ。むしろスベっていると思う。


あるいはオナニーでもしてる時に流れていて、この曲聴くと股間がジュピターしちゃうんでしょうね。もう勢い任せで最低なことしか書いてない。オナニー話は冗談にしても、ドラマで「Jupiter」を流すことがある意味制作側のオナニーになってはしないか、というのはちょっと本気で言っている。もちろんこの主張が自分の独りよがりオナニーな主張かもしれない、というリスクは孕んでいるのだけども、それでもあと数回jupiterオナニー、略してジュピニーを見せられるよりは声高にスベっていることを主張するほうがマシかと思う。

*1:池井戸潤の原作が全てそうだとは思わない。ドラマように分かりやすく味付けされているという解釈