24時間テレビの楽しみ方・2015

今年も「24時間テレビ」が放送されました。相変わらずジャニーズが司会をして、特に意味もなくマラソンを走っていました。


こんなふうに書くと自分は24時間テレビに対して否定的なように映るかもしれないが、そんなことはない。大好きである。ただまあ、あまり24時間テレビに対して肯定的な意見って聞きませんよね。ネットはもちろん、実生活においてでさえ。単に自分の周りの人間にそういう人が多いだけかもしれませんけど。


否定的な意見の最たるものは「偽善的だ」というもの。確かに日テレが番組の制作費(出演者のギャラ含む)として計上する金額を、そのままチャリティに回したほうがよっぽど助かるなんて話はよく耳にする。しかし考えてほしい。なぜそういう見方しかできないのか、と。


基本的にテレビ局が放送する番組、しかも長時間番組とくれば、それは祭りなのである。祭りに金かけて何が悪いんだと。そして最近の「テレビがつまらん」という人に問いたい。チャリティをガチでやってお金を集めて何が楽しいんだ、と。番組内容が面白い、つまらないではなく、放送することそのものがチャリティなのだ。賛否両論あれど、普段身近にいなければ気に留めることもない障碍を持った方々に目を向けるという必要は、これはお金をかけてでも、ギャラを支払ってでもやるべきことではあると思うのだ。


しかしこんな大人な意見はさておき、自分が本当に言いたいのは「いいかげん表層の面白さだけで番組の良し悪しを論ずるのはやめよう」ということだ。24時間テレビの「偽善チャリティ番組」だなんて思っている人は最初から見なければいいし、日頃からチャリティに勤しめばいい。常々言っていることではあるんだけども、テレビの楽しみ方を知らない人間が多すぎるのよ。未熟。ジャニーズに支払われるギャラがジャニーズ見たさに武道館に行く女子どもの募金総額より多くとも、そこらへんは目を瞑る。ふだん社会の矛盾から目を背けるくせに、こういうことにだけ目を向けてはいけない。それこそ自己矛盾だ。


個人的な24時間テレビの楽しみ方は「サライを大声で熱唱する」である。


サライ谷村新司加山雄三が作ったチャリティソング。さも24時間テレビの初回からあるように振る舞っているが、歴史は24時間マラソンと同じくらいの92年から。今の若い人は生まれたときからサライ流れているから知らんだろうが。


おそらくではあるが、24時間テレビに否定的な人で「サライを真剣に歌ったことがある」人は殆どいないのではないか、と思う。そりゃ否定的だから歌わないと思うんだけど。けど、この曲、歌ってみると非常にいい。泣ける。さすが大御所が作っただけあって、感情が徐々に高まってくる詞とメロディ。歌わないともったいない。


ズバリ言ってしまうと(リスペクト細木和子)、24時間テレビサライを気持ちよく歌うための壮大な前フリである。肯定的な人も否定的な人も、「感動した」やら「今年もクソつまんなかった」やら、様々な思いを込めて全てをサライにぶつけるのである。大声で、しかも左右に揺れながら。大勢で、あるいはテレビの前で一人でも。するとどうだろう。自然と声は上ずり、目には涙。ぜひ一度試してほしい。


所詮テレビである。自分が言うのもなんだが、所詮はテレビ。制作者の意図がどうあれ、楽しまなければウソだ。だったらよく意味も分からず24時間放送する「祭り」を楽しめばいいのだ。自分のようにチャリティ心が一切なくとも、無限に楽しめる。また逆に「偽善だ」との一点張りで24時間テレビの面白さを見逃している人が、すげえたくさんいるのではないか、とも思っている。


最後に以前にも紹介した、所ジョージの至言を再び引用しておく。

テレビが「これ面白いでしょ」と出してきたものを、ただ「うんうん」と受け入れるのはくだらない文化だと思うんだ。なんで100%面白いものだけを求めるのか、俺には分からないな。人がつまらないと言ってるものを面白がれたら、特別な自分を感じられるじゃん。幸せや満足は自分で感じるものなんだから。テレビ見てつまらないと言ってるのは、その人がつまらない。『人生の楽園』も、自分で勝手に面白がってるんだもん。面白いものをただ待つのではなく、こっちで面白がればいいわけ。

ネット上でのマラソンのワープ監視なんかも、基本的にはアンチ的要素が強いですが、楽しみ方のひとつではあると思う。結局楽しんだもの勝ちです。



……という内容の文章を13年前(2002年)に自分は書いていました。もちろん大幅加筆修正(主に不要部分の削除)はしてますが、13年前から自分も周囲も何も変わっちゃいないのかな、とは思います。いまだに24時間テレビを真正面から批判する人間の気がしれない。