堀北真希が結婚した。「する」ではない。「した」のだ。もう事実なのである。
この報道を最初に知ったのは仕事の休憩時間。ただでさえ土曜の出勤ということでテンション低め、いや殆どゼロの状態で仕事していたのに、こんなもん休憩時間に見たらやる気元気井脇は全てマイナスに。そりゃそうですよ。
自分の頭がここらへんから溶けていきました。かなり頭がおかしい文章が続きますのでご了承ください。
「堀北真希のワキをペロペロしたい」
ご存じのとおり、「全人類の共通の夢」です。それと同時に「有史以来全人類が果たすことの出来ない夢」でもありました。森永「アロエヨーグルト」のCMでタンクトップ姿で「ぷるんぷるん」という低音ボイスの歌声に合わせて踊る堀北の姿を見て恋が始まって、あなたの髪に触れ、私が出来ること、といえばそう「堀北のワキをぺろぺろしたい」んです。Can't stop fallin'in Horikita's wakiです。しかし、叶わない。
「堀北真希のワキをペロペロすることが人生の目的であり意味である。しかしそれが叶わないからこそ人生は尊く、そして面白い」
と述べ、人々に生きる意味を諭したのでした。その一方で万能の学者であったガリレオは
「それでも堀北のワキをペロペロしたい」
と、当時の価値観では「絶対に無理」とされていたことに対し懐疑的な視点でもって、自分の飽くなき探求心を宣言したことは有名な話です。
もちろん日本でもこの願いは共通である。平安時代の貴族藤原道長は、
「この世をば わが世とおもふ ほりきたの わきをぺろぺろ できるといいな」
という歌を詠みました。これは「この世は自分のものだ」という絶対的な権力を握っていた道長が栄華を自慢すると同時に、そんな道長ですら「堀北のワキをペロペロする」というのは「できるといいな」と詠むくらいに「叶わぬ夢」だったということを示している。教科書にも解釈が登場するくらいの有名な歌です。
「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」
という有名な一文を残し広く知られていますが、この続きはあまり知られていない。この続きには
「天は堀北真希を作り、堀北のワキの下をペロペロさせず」
とあります。もちろん前半部分の解釈は「人間は平等であり、勉強次第でどうにでもなるから、ちゃんと勉強しろよ」という意味になりますが、その一方で「天は堀北真希のような人間もちゃんと作る。そこらへんは結局不平等よ。どんなに努力しても勉強しても堀北のワキはペロペロできないし、堀北がさせないよ」と、「努力ではどうにもならないことも少なからず存在する」という真理を述べています。ちなみにこの後の文では「しかし私もペロペロしたい」と続きます。諭吉の願望がダダ漏れです。
また、「画餅(がべい:絵に描いた餅)」という言葉は今現在「絵に描いただけで何の役にも立たないもの」という意味で用いられますが、本来は「堀北真希のワキをペロペロできないから、せめて絵に描いたものをペロペロして我慢する」という意味でした。実際絵に描いた堀北のワキをペロペロすると紙はガビガビになりますが、この「ガビガビ」という表現が「がべい」が訛ったものであることは広く知られています。
このように歴史を紐解いても、いやそんなことをするまでもなく「堀北真希のワキをペロペロする」というのは、人類にとっていかに尊く、侵すことの出来ない聖域、サンクチュアリであったかを知ることが出来ます。
しかし、山本耕史は「堀北真希のワキをペロペロしている」んですよ。夫婦だから。夫婦というだけで。
全人類の見果てぬ夢を、山本は「旦那だから」という理由「だけ」で叶えてしまっていいのか?いいはずがない。アリストテレスが、ガリレオが、藤原道長が、福澤諭吉が許すわけがない。もちろん自分もである。
百歩譲ってセックスは許そう。子どもを作るのは夫婦だから仕方がない。しかし、夫婦だからといって無条件にワキをペロペロしていいというルールはない。堀北真希のワキは聖域なのだ。乳首はなめてもワキはなめるな。おそらく全世界で一番しょうもない文章を書いていることは自覚している。しかし指が止まらない。
自分は堀北と山本の結婚を甘んじて受け入れる。血涙でもって受け入れる。しかしワキだけはどうにもならない。婚姻届はもう役所に提出したらしいが、「堀北のワキはペロペロしません」届もぜひ提出してほしい。自分に。
こんな文章をシラフで黙々と打ち込んでいましたが、特に精神疾患もありませんから通報とかしなくて大丈夫です。精神疾患もないのにこんな文章書いていることが一番大丈夫じゃないけど。