言葉の重み

通り魔は「誰でもよかった」と言います。果たして本当なのでしょうか。


名古屋の路上に車が突っ込んで逮捕された男もこう供述しております。

「車で人をはねて殺すつもりだった。誰でもよかった。わざと突っ込んだ」


殺すなら誰でもよい。まあ通り魔が定型句的に述べる発言です。まるでこの発言がしたいがために通り魔やってんじゃねえかと思うくらい。でまあ、この発言はよく「投げやり」「捨て鉢」「自暴自棄」というキーワードと結びついてきます。要するに憎い相手を殺すのが目的なのではなく、殺すこと自体が目的なのだと。そのくらいまでに人生絶望しちゃってんぜ、ということをアピールしたいがためにやってます。本当に甘ちゃんです。能年玲奈ではありません。


だいたいこういう人たちは精神鑑定にかけられるわけですが、自分から言わせればどこも何もおかしくありません。なぜなら、自分の「殺したい」という目的のために、手段を選ばないどころか一番安易な方法でやってるんだもの。一番人殺ししやすい方法を選ぶくらいの判断能力はあるわけです。本当に誰でもいいんなら自分は「じゃあヤクザの事務所に腹マイトで突撃したらどうなのよ」と思ってしまいますもの。それが出来ない時点で「誰でも」はよくないのです。


じゃあなぜこんなことを言うのか。それは「自暴自棄になっている自分アピール」に過ぎないでしょう。こんな殺人をしたのは自分が悪いんじゃない、自分をこういう環境に、精神状態にまで追い込んだ周囲が悪いんだ、と。今回の殺人犯の父親は愛知県警の警視らしいですが、まあ間違いなく「無職の息子による偉い父親に対するあてつけ」でしょう。別にそうじゃなくてもいいんですが、自分の犯行に対する言い訳が「誰でもよかった」。ここまできてまだ往生際が悪いです。自分の簡単に殺せそうな相手を選んでいるのに「誰でもよい」はない。言い訳まで卑怯である。例えばメシを食べに行くときに「何でもいいよ」と言っておきながら、選んだ店に対して不満を言ってくる奴に似ている。


「誰でもよかった」んじゃなくて、「自分の最大の目的である殺人が安易に遂行できる相手であれば構わなかった」と言うべきだし、そういう旨を犯人が述べているならば正しく報道すべきです。「無差別殺人をする俺、可哀想」の言い訳の片棒を担ぐ必要はない。


たぶん、「誰でもよい」という言葉は安易そうに思えて、実は結構覚悟の座った言葉なんじゃないかと思う。


前述の店の例ではないが、「何でもよい」って何も考えずに使うことが多い。自分で選ぶ、決めるのが面倒くさいときに使う言葉だ。かくいう自分もよく使う。かといって本当に「何でもよい」わけがなく、その相手が決めた選択肢に対して不満があることも少なくないが、自分はこの言葉を使った以上は、決まってから文句をいう筋合いはないと思っている。ただ決まる前なら「それはやだ」って言うんだけど。それはまあいい。


「何でもよい」は自分の意見を放棄しているとみせかけて、その決まったことに対して全てを受け入れなければならないという意味で、究極に制限がかかっていると言ってもよい。むしろその決められた枠を全て受け入れる度量が必要なのである。だから、案外この言葉を正確に使いこなすのは難しいのではないだろうか。


無差別殺人犯よ、何の覚悟もなしに「誰でもよかった」なんて使うんじゃない。ヤクザを殺しに行く覚悟があって使うべきだ。そして、本当にこの言葉の意味を使いこなしているこの漢の生き様を目の当たりにしてもう一度思い直せ。


「女子アナであれば、誰でもよかった」


先日結婚を発表したキャイ〜ン天野ひろゆき。かねてから女子アナ好きを公言しており、かつて女子アナと付き合っていた。そして今回結婚を決めた相手もやはり女子アナ。ここまでの覚悟を貫かなければ「誰でもよかった」なんて普通使いこなせないのである。


もちろん今回の結婚に関して、天野がこう発言した事実はないが、どんな無差別殺人犯よりも「誰でもよかった」を体現しているのは天野しかいないだろう。お幸せに。そして「誰でもよい」扱いしてしまった奥さんごめんなさい。