赦すことと受け入れること

極楽とんぼ加藤浩次が「27時間テレビ」内で、相方山本圭壱の復帰について話していた(らしい。実際見てないんだけど)。


簡単に言えば「山本をそろそろ許してやってくれないか」という趣旨。これは今年に入ってから度々発言されていることで、正直自分からすればニュースにするようなことではないと思っている。というか加藤はずっとそのことを言い続けているわけで、それが果たされていないという現実が長く続いているだけだ。


はっきり言ってしまえば、山本は復帰しても自分は全然構わないと思っている。むしろもっと危うい芸能人はいくらでもいるのに、山本だけが「復帰できない」というのは理屈に合わない話だと思う。まあ加藤が吉本の人間なので、吉本以外から復帰というわけにいかないのが難しい話なので(そもそも吉本は再び山本を雇用することにメリットがあまりない)、やはりこのまま復帰しないというのが既定路線になりそうだが、そうでなければ山本はもっと早く芸能界に復帰していた可能性はある。


ただまあ、復帰したところで居場所があるかどうかはまた別なんだけども。


それは芸能界のポジション、という意味ではなく、「あれだけ騒ぎを起こして解雇されて、暫くの間テレビから遠ざかっていた山本がテレビに出てきたところで、誰が山本を笑うのか」という意味においてである。個人的には山本の笑いは大袈裟に言えばめちゃイケの半分を担っていたという記憶があるし、嫌いな笑いじゃなかった。だから復帰した姿を見てみたい、という気持ちがないわけではないが、かといってそれを積極的に見るのかといえば、多分違う。


田代まさしを思い出してほしい。田代がいわゆる「ミニにタコ」事件で一度芸能界から姿を消し、また戻ってきたことがあったが、その時の田代は完全に「腫れ物に触る」ような扱いだったことを覚えているだろうか。テレビ側としても何とか田代を使ってみようと試みたものの、結局「盗撮犯」というレッテルは、テレビにとって扱いにくいものでしかなかった。それは田代の「バラエティタレント」の本来の能力とは何も関係がなかった。


しかしそれは翻せば「バラエティタレントの能力」というのは、そのようなふわふわとしたイメージに支えられているものでしかなく、実力があろうとなかろうと一度ついたレッテルに敵うものではないということ。次長課長の河本がテレビから見なくなった理由が分からない人はいないだろう。


だから、山本の復帰が現実したとしても、かつてのような活動など望むべくもなく、結果的に今より悲しい事態にしかならないんじゃないかと思えてしまうわけだ。それは加藤はおろか山本本人が一番分かっていることなのかもしれない。それを承知のうえで加藤は山本の復帰を言い続けているんだろう。



「復帰しても(別に)いいけど、復帰されたところで困る」。大半の人はそう思っているはずだ。世間は山本のことをいい加減赦しているとは思うが、かといってその人を受け入れるかはまた別の話。