文化系

「ズームイン」が推している「書道ガールズ甲子園」が面白いです。


「ズームイン」をご覧になる習慣がない人にとっては「何のこっちゃ」だと思うのですが、「書道ガールズ甲子園」とは、書道部の女子高生が普通の半紙ではなく、超特大の半紙にパフォーマンスを繰り広げながら書を完成させるという競技?である。そもそもは愛媛の祭のイベントで始めた「書道パフォーマンス甲子園」つう大会が元になっており、好評だったんで日テレが女子高生限定で乗っかったようだ。


日テレは成海凛子主演で「書道ガールズ!!わたしたちの甲子園」つう映画まで作ってしまったので、とことん盛り上げるしかない。そして「女子高生が一生懸命書道をやることによる感動・絆」などの要素を盛り込んでくるわけである。まあ高校生が一生懸命取り組む姿は書道にせよなんにせよ感動の鉄板であるから、そこを掘り下げていくことは間違いではない。


しかし自分のように心底捻じ曲がってしまっている人間にはその感動が届くことはなく、そこに存在する「何か」に心を奪われてしまうのです。その「何か」とは何か。


それは「文化系がちょっと頑張ってはっちゃける姿」に他ならない、という結論に先ほど達しました。偏見を承知であえて書きますが、書道をやっている人というのはあんまりチャラチャラしてない。どちらかといえば穏やかで静かなタイプの人がやるもの、というイメージがある。しかしこの「パフォーマンス書道」という分野は、その名の通り「パフォーマンス」を重視しているので、書を完成させるまでに手拍子だったり踊ったり、色々なことをやるわけです。その姿の「無理してる感」はなかなかいい。


いや、実際に無理しているかどうかは分からんのです。そもそもパフォーマンス書道をやりたい、と手を挙げる女子高生はイヤイヤやっているわけではないので、少なからず「そういうことがしたい」と思ってやっているわけだ。だから元々そういうノリが好きでやっている、という可能性は高い。


しかし「好き」と「合っている」は別であることを忘れてはいけない。そもそもパフォーマンス的なことがしたかったら最初から書道部ではなく他の部活に入っていてもよさそうなもんだ。しかし敢えて高校で書道部を選択しているということは、パフォーマンスではなく書道に心奪われているということ。十数年という人生の中で、部活に書道を選ぶという人がパフォーマンスという表現方法に「合っている」感じは、自分は少なくとも受けないのである。色んなことを経験している大人ならともかく、女子高生に、しかも書道畑を歩んできた人にそこまでの適合性を見出せるほうがどうかしてる。


という偏見があってこそ、自分の「なんか無理してる感」という観点になる。今まで地味に真剣に書道をやってきたのに、ここで突然のはっちゃけ。高校デビューや大学デビューと似たような感じだろうか。表面上、そして本人らはノリノリなのだが、そこはかとなく、どことなく溢れる違和感。その微妙に居たたまれない感じが、自分はたまらなく面白い。


加えて、「いいとも!」で一躍有名になった書道家森大衛氏が審査に参加しているのもポイントだ。パフォーマンスに気を取られがちであり、正直一般人は書の完成度なんて殆ど気にしてはいないと思うのだが、ひとりマジメに気を張って審査しているところが泣ける。ブログの記述を引用してみる。

しかし、森大衛は立場的に感情に押し流されてはいけません。
パフォーマンス書道はこのままだとただの見せ物で
終ってしまう危険性をはらんでいます。
デッカい寄せ書きなら書道部員じゃなくても書ける。

正直なところ日テレは映画の件も含めて「ただの見世物」として扱う気がマンマンだと思うが、真剣にパフォーマンス書道の未来を考えている森氏は女子高生よりカッコイイ。さすが武田双雲のひらがなをブログで酷評した男。書道に対する思いが半端じゃない。でも、日テレの企画だというところが熱い熱くないに関係なく最初から負け戦だと思うのは自分だけだろうか。きっと視聴者も日テレも「デッカい寄せ書き」だと思ってるはず。


というわけで、書道部女子高生の「なんか無理してる感」、日テレの「見世物としての嗅覚」、森氏の「書道に対する熱くマジメな思い、が最終的には空回ってるんじゃないかという老婆心」という要素を総合すると、自分は「面白い」という結論に達するのです。


褒めてますよ、ええ。誰も悪くないがゆえの喜劇だと思う。