出演の天丼

「おしゃれイズム」に天才小学生特集ということで、漫才のまえだまえだ、演歌歌手のさくらまや、卓球の平野美宇が登場していた。


天才小学生というのはいつの時代も登場する。芸能界での天才子供のはしりといえば美空ひばりであり、以降も時代ごとに天才の子供は登場する。また今ではスポーツの英才教育も盛んなことから、あらゆるスポーツの天才が登場する時代になった。


子供の宿命は「大きくなること」であり、いつしか「天才子供」ではなくなる。子供でなくなるだけで「天才」のままなら構わないが、その大部分は子供でなくなると同時に天才の要素もなくなってしまい、ただの大人になってしまうという儚い存在でもある。


当の本人は10年そこらしか生きていないのでそんなことは知らないが、大人の殆どはそれが儚いものであることを知っているから、彼らを天才の時だけ殊更チヤホヤするのと同時に、才能に翳りが見えたときに掌を返すのも早い。自分はそんな時の流れの残酷さに翻弄される姿を見たいがために彼らのような「天才」と呼ばれる子供たちをつい追いかけてしまうのかもしれない。決していい趣味ではないんだろうが、彼らが色んな意味で「面白い」のだから仕方ない。


というわけで「おしゃれイズム」を野次馬根性丸出しで見ていたわけだけど、この日の日テレは少し手の込んだことをしているな、と感じた。いや「感じた」のは自分であって、決して日テレが意図的にやっているのではないと思うのだが、なぜか「おしゃれイズム」に出演していた彼らが「おしゃれイズム」の前後の番組に登場するという「出演の天丼」とでもいうべき現象が起きていた。


「出演の天丼」という現象。テレビを見ていると「特に出演の意図があるわけでもないのに、なぜか自分の見る番組に登場する」という場合がたまにある。これを自分は「出演の天丼」と呼んでいる。例えば何の気なしに「いいとも!」を見ていて、そこにゲストで出演していたタレントが「ごきげんよう」にまたゲストで登場するときに「あれ?何この感じ」という気分にさせてくれる。たとえば映画や番組の宣伝などであちこちの番組に顔を出している俳優がいる。これも一応は「出演の天丼」なのだが、出演の意図が丸分かりなので、出演そのものに何かを感じることはない。大事なのは「出演そのものに宣伝目的がないのに出てくる」ことだ。


卓球の天才少女平野美宇。彼女は「おしゃれイズム」の前の「行列の出来る法律相談所」に出演していた。「官僚たちの夏」のCMの間にザッピングをしていたら紳助とアリキリ石井がダブルスで平野に卓球を挑んでいる様子が流れているのを確認。その後「おしゃれイズム」を見たらまた出てるんだから驚いた。先日話題になったとはいえ、別に彼女は卓球番組の宣伝で集中的に出ているわけではないのだ。


そして演歌歌手さくらまや。彼女は本人ではないのだが「おしゃれイズム」後の「ガキの使い」にて、バス釣りをしている芸能人を応援するために山崎邦正さくらまやに扮して彼女の曲「大漁まつり」を熱唱。偶然だとは思うが、一連の流れで日テレを見ている人からすればさくらまやに対する手の込んだ嫌がらせとしか思えない。


同じ局といえど当然ながら番組ごとにスタッフが違うのだから、彼女らが立て続けに出るような形になったのは偶然なのだろう。けど「偶然であること」を建前に意図的にそういう効果を狙っていることが、日テレは度々見受けられるので真相は不明だ。以前に同じ日曜のこの時間帯のこと。「おしゃれイズム」のゲストが小倉智昭だったときに、その後の「黒バラ」で芸能人カツラ疑惑の放送するかも、という煽りをテレビ欄に掲載したことがあった。これは完全に「偶然ですよ」の言い訳のもとに行った悪意ある悪ふざけだろう。だから今回も一概に偶然と片付けることはできないのかもしれない。


番組ごとの連携は難しいだろうが、もしこういうスタイルが確立されるようになれば番組単位ではなく複数の番組の固まりを「出演の天丼が起こるひとつの枠」と捉えることが出来るわけで、テレビ局による長時間の囲い込みを可能にする有効な手段になるのかも、と思わないでもない。ネット時代の主流となりつつある「見たい番組を見たいときに」というオンデマンドとは真逆の発想であるけども、テレビにしか出来ないことという観点からすれば的外れでもないのでは。