そこにウソはないとでも

飯島愛について。


死因が判らないし、自殺か病死かも判然としない中で理由を探ろうとするのはごく当たり前かとは思う。がしかし、その死(特に自殺だとしたとき)の根拠をブログから探ろうとするのはいかがなもんか。


そりゃ芸能活動を引退し、その活動の範囲が主にブログだった飯島愛の心情を読み取るのはブログが適しているのは分かる。別に飯島ではなくとも、ブログを開設している芸能人だったならブログからその人の心情を読み取ろうとするだろう。


けどブログの記述ってどこまで信用していいんだか分からん。少なくとも自分のブログ(というかこのサイト)に書いていることなんて殆ど当てにならない。普段から「死にたい」言ってるし書いてるけども、だからといって自分が飯島と同じような状態で死体で発見されたときに、本当は自然死なのに「自殺だ」と断定されたらたまったもんじゃない。


そもそもブログなんてのは「ウェブ上の日記」だなんて言われてはいるが、他人に公開することを前提に書いているものであって、そこに本心を正直に吐露することなんてまずない。いや少なからずはあるのかもしれないが、素直に正直に死にたいときに「死にたい」とブログには書かないだろう。特に飯島のように自分の文章が見られているという自覚があれば尚更。常にに他人にどう見られているかを意識して書く。当然のことだ。ウソではないかもしれないが、そういう弱音をブログに書くときは「他人に優しくされたい」という願望を伝える気持ちが間違いなく混じっている。純粋な心情吐露ではない。


そんなものを根拠に飯島の心情を推し量るのは危険だろう。大量にある記述から意向に沿う記述を抜き出すのも可能であるし、そこに飯島の本心が出てない可能性も高い。


そりゃ自分だってある程度素直にここに心情は書いているつもりだが、やはり自分のなかに「書いていいこと」と「書いてはいけないこと」の線引きはあり、より自分のプライベートに関わる部分は「書いてはいけないこと」に属する。そんな峻別されたものだけを見て勝手に心情を推し量られるのは勘弁だ。このまま死んだら自分という人間は「TENGA EGGでオナニーがしたくてたまらない男」でしかない。間違いではないけど、単純にイヤだ。そんなに短絡的に決めてくれるな。