努力・友情・勝利

浜崎あゆみがライブツアーの千秋楽で泣いたそうな。


倖田來未も復帰しては泣いたりエイベックスの株主総会のライブで泣いたり、よくもまあ泣くもんだと思ってしまいますが、事務所の先輩である浜崎あゆみも事ある毎に泣いてる気がします。涙は女の武器なんて言ったら怒られてしまいそうですが、これだけ泣いてたら言われてもしゃあない。涙はエイベックス所属歌手の記事になるための武器、と換言してもいいですけど。


でまあ浜崎さんですが、今年のアタマに左耳が聴こえないことならびに回復の見込みがないことを発表したわけですが、今回のツアーはその発表後初のツアーとなったわけで、左耳が聴こえないという歌手としては致命的な欠陥を抱えた歌手のライブをファンは支持するのか、という点で非常に注目が集まった(ことになっている)わけですが、そんな心配をよそにライブは大盛況、感極まった浜崎さんは涙してしまったということです。まあ非常に分かりやすい構図ですわな。何の文句のつけようもありません。


しかしエイベックス側は「これだけじゃ記事のパンチに欠けるなあ」と思ったんでしょうね。スポーツ新聞各紙には「“姉貴”と慕う親友の死を乗り越え」という記事が並びました。それもそのはず、ツアー千秋楽前日に浜崎の会員制サイトで「姉貴」なる存在の死を告白したという。スポーツ新聞の各社が揃って浜崎の会員制サイトに登録しているとは思わないので、事務所側から「いっちょこんなもんでよろしく」という「何か」が来たのだろう。


でまあ、身近な人の死が精神的なショックをもたらすのは別に変なことではない。その人のことを考えると涙がこぼれる、というのも事実はどうあれ物語としては悪くない。ただ、「姉貴」なる人物の死が昨年の秋だっていうのはちょっといただけない。さすがに時間が経ちすぎじゃないか。ここで持ち出すべき話なのだろうか、という疑問を持ち出すのは人間がひねくれているせいだけではあるまい。


そりゃ本当に浜崎は彼女の死を乗り越えたのだろう。けど、その「乗り越えたという事実」を今回のツアーの千秋楽にかこつけて発表すべきことなのか。単に「ツアーの千秋楽を浜崎が涙で迎えました」ということを誇示したいがためなのは誰しもが分かりきっていることだが、こんなやり方でしか浜崎のツアー千秋楽という記事を正当化できないのだろうか。やるにしてももっと巧いやり方ってあるはずでは、とどうしても思えてならない。


なぜエイベックスの周辺は「挽回しようのないセンスの悪さ」を誰も指摘しないのだろうか。「なぜ」と言っておいて自分では「周辺がみな同じようなセンスの持ち主なので、誰もセンスが悪いと思うことが出来ない」という結論が出ているのもアレなんだが。


浜崎のツアー千秋楽を報道する記事を「制作」(さすがに「捏造」とまでは言わない)するにしても、もっと筋のいい書き方って出来るだろ。半年以上も前の親友の死をいまさら思い出したように取り上げるとは「ネタ切れ」という手の内を自ら晒しているも同然だ。「巧く記事になった」と思っているのか、それとも「笑われてもそれでいい」と開き直っているのか、自分にはもうマジなのかネタなのか判別することすら無理だ。そのくらい彼らのやり方は釈然としない。


今回の記事といい、「月刊EXILE」30万部というセンスといい、エイベックス周辺のセンスは自分の理解の及ばないところまでいとも簡単に突き抜けてくれる。しかも「月刊EXIILE」はそこそこ売れているという話を聞くと「自分が間違っているのか、それとも世の中がどうしようもなくなっているのか」という不安すら与えてくれる。しかし世の中なんてのは倖田來未の一件を考えればちっとも信用出来るものではないことも学んだ。


だから今回も堂々と「こんな記事を何の恥ずかしげもなく通用すると思っているエイベックス的センスはダサい」とやはり言い切ることにする。そんなにツアーファイナルで浜崎が涙したことに「左耳が聴こえない」以上のなんらかの説明と価値を与えなければならなかったか。そうでもしないと記事にでもならないと自覚しているのか。そのためには多少強引でも親友と慕った人間の死まで利用するのか。親友の死を乗り越えるというストーリーがないと、浜崎あゆみという存在に不安があるのだろうか。曲がりなりにも自社の看板歌手の価値を信用してないんだろうか。


「何かを乗り越えることで強くなる」なんてのは、ジャンプのマンガにでも任せておけばいいのである。浜崎にそんな物語を必要以上に背負わせてどうする。しかしまあ、この「エイベックス的センス」との不毛な戦いは自分が生きている限り(あるいはエイベックスがある限り)続くんだろうか。そう考えるだけでげんなりだ。