想像と戯れよ

アメトーーク」で熟女ドラフト会議っつうのをやってました。

 

以前から熟女大好き芸人という企画があり、その延長みたいなもの。お食事会を開くとして、そこに誰を招くかをドラフト形式で指名していく。同趣旨の企画「芸人ドラフト会議」はバラエティ番組を作るときの布陣を考えて指名をするので、どんな番組を作るかという構想が戦略を生むけおも、今回のは単なるほのぼの。それはそれでいい。あんまり面白くないかな?と思ったけどそこそこ楽しめた。

 

で、このドラフト1位にロバート秋山が夏井いつき先生を指名したわけですよ。

 

見ていて「誰?」と思った人も多いであろう「夏井いつき」の正体は「プレバト」などの番組に出演している俳人。芸能人の作った俳句をビシバシ添削していく姿、特に梅沢富美男との丁々発止のやりとりが面白く、「プレバト」の高視聴率に一役買っている。2018年には紅白の審査員もやったことがある。なので、そちらの方面では超有名人であるが、興味のない人は全然知らない。自分も夏井先生のファンである。

 

秋山は「プレバト」で夏井先生と共演しており、その存在を「たまらない」と評する。プレバトで俳句の添削をするときは着物なのだけども、ネット上には着物ではないときの写真も転がっており、そのエレガンスさがたまらないと秋山は続ける。さらにお食事会を開く設定なので、「お食事会はドレスコードで和服NG」とし、それに戸惑う夏井先生が見たいと話す。

 

自分はこれを見たときにすぐさま「夏井先生は着物は仕事でしか着ない人のはずだなあ」と思ったわけですね。夏井先生が着物を着るのはあくまで俳句の仕事の時だけ、言ってみれば「仕事着」なわけです。自分もサラリーマンなのでスーツ着ますけども、普段着でスーツを着ることは殆どないですから、それと同じ感覚。だから夏井先生は着物ではないことにそんなに照れたり戸惑ったりしないだろうとすぐ思ったわけです。

 

ファンではあるが決して夏井先生ガチ勢(夏井先生の句会ライブとかに参加する俳句を嗜む人たち、をそう呼ぶかどうかは知らないけど勝手に呼んでみた)ではない自分ですら「深イイ話」あたりでこういう情報を見聞きしているわけだから、夏井先生ガチ勢からすれば常識中の常識である知識。そんな見当はずれなこと言ったら「秋山わかってねえなあ」とネット上で誹謗中傷の嵐になってしまうのでは?と思いながらtwitterのワード検索を眺めていたら、全然指摘されてない。

 

よくよく考えたら夏井先生ガチ勢と想定される高齢者(もちろん若い人もいるだろうけど)が「アメトーーク」をリアルタイムで見ているわけがないし、見ていたとしてもそれを即座にtwitterでつぶやくわけがねえか、と思い直す。裏を返せば夏井先生の着物事情を知りつつリアルタイムでアメトーーク見てtwitterで呟く人間なんか、世の中にほとんど存在しないのだと認識させられた。

 

さて、ようやく本題。この話で何が言いたいのかと言えば「自分より秋山のほうが圧倒的に正しい」ということです。

 

番組を見ていたときは上記のように「秋山違うんだよなあ」という考えが自分の頭に浮かびました。夏井先生の普段着が着物でないことは「事実」であり、「普段が着物でそうじゃない恰好に戸惑う夏井先生」は間違った認識による想像でしかないわけです。言ってしまえば自分のほうが正しいということになる。

 

以前の自分ならこの件で「自分は夏井先生が普段着で着物を着ないことを知っている」ということで「そうじゃない」と悦に入りながら秋山に謎のマウントを取って、その流れをここで書いていた可能性もある。いや実際その流れをここに書いているのだから、ここまで読んでそう思っている人のほうが多いんじゃないだろうか。

 

しかし最近の自分は「その人にとっての認識を、他人が“事実”でもって指摘することの無意味」を考えます。

 

その人の名誉に関わることなど、絶対に外しちゃいけない認識ってのはあるわけですが、それ以外であれば、事実なんてのは「客観的に見てそこにあるもの」でしかなく、個々人がどのように受け止めていようと関係ないと自分は思います。

 

だから今回秋山が「夏井先生が普段着物を着ない」という事実を知らずに「夏井先生が着物を着ないことによって照れるところを見たい」という想像と戯れていることに対して、「いや夏井先生私服は洋服だから」と突っ込んだところで、何ひとつ面白いことなんかない。だったらその事実が間違いだったとしても「いやあ、秋山のその気持ちわかるなあ」と笑っていたほうが絶対に楽しい。

 

その間違いを一人だけ訂正できる人がいるとするならば、それは夏井先生ただひとりであり、自分のような夏井先生ガチ勢ですらないただのオッサンがその間違いを指摘したところで、そこに残るのは自己満足だけ。そんな正しさは必要ないんじゃないかと。今回の件でいえば、事実はどうあれ、夏井先生に対する妄想を炸裂させて笑いを取っている秋山が圧倒的に「正しい」のです。事実が正しいだけが正しいんじゃない。

 

手越にしたら

NEWS手越が事務所から活動自粛を言い渡される。一部報道では事務所退所の意向も。

 

今まで散々素行の面で警告をされてきた手越であるが、緊急事態宣言のさなかも飲み歩いたことが、さすがの事務所も我慢ならなかったということなのだろう。事務所の気持ちはよく分かるし、その点を誰も疑問に思う人はいない。

 

しかし手越にしたら「なんで今回はダメなのよ」と思っているんじゃないか。少なくとも自分が手越ならそう思う。

 

事務所が手越に「教育的指導」をする機会は、それこそいくらでもあった。女性関係もそうだし、よからぬ人物と一緒の写真が流れたときもそうだし、他にもたくさん。今回の「緊急事態宣言のさなかの外出及び飲み会」は社会人として決して褒められる行為ではないし、事務所総出の取り組みに水を差す行為であるから、これを事務所が重く受け取るのは分かる。しかし「一般的なスキャンダル度合」でいけば、表面上ではお咎めなしだった今までの件よりも今回の件が大きいとは、正直あまり思えない。

 

「社会通念上あまり褒められない行為(あくまで自粛なのだから、そこまで非難されるべきでもないとは個人的には思うけど)」と「芸能人におけるスキャンダル」を同じ物差しで考えるべきではないのだろうが、それこそ「法律に触れているわけではない自粛」に対して「もしかしたら法律に触れているかもしれない未成年飲酒」より重いのかな、とか色々思うことはある。

 

だから手越からすれば今まで通り「自分の本能に従って行動した」に過ぎず、今回も事務所から小言は言われるかもしれないけど活動自粛に至るとは思ってなかったんだろう。やってる中身も今までとさほど変わらない。今回の件が活動自粛というペナルティを与えられるなら、逆に今までの件がなぜペナルティがなかったのかということになる。今回の件で事務所側を責める人は熱心なファンを除けばほとんどいないと思うのだけど、よく考えたら今までのことと今回のことで、理屈に合わないことをやっているのは事務所側だ。今まで締めることが出来たのに締めなかったから手越がそのままだったわけで、じゃあこれからも(悪いことを事務所が全て抱え込むという責任込みで)そうすべきじゃないのかな、ともちょっと思うのだ。

 

とはいえ、事務所側からすれば「いいかげん累積でアウト」というの気持ちだろうから、その処分はなんら不思議じゃない。それでも今回の件が活動自粛というペナルティを与えられるような決定打だとは、やっぱりちょっと思えない。自分には「見放した」よりも「事務所が今まで手越の処分を甘々にしてきたことのツケを無責任に放棄した」感がする。今まで処分してこなかったんだから、事務所はこれからも手越を甘やかして事務所に囲うことで事務所の責任を全うするしかないのに。

 

手越を処分するなら今までもっと大きな契機はいくらでもあったはずなのに、なぜ今回なのか。今までが良くて今回がダメの理由が「累積」以外自分には見当たらない。単に「滝沢体制による方針変更」と言われればそれまでだけど、手越はそれに納得いかないだろう。納得いかないだろうけど、この話を俯瞰で手越の擁護する人はおそらく殆どいないところがこの件の哀しいところ。

 

 

情熱大陸ここ2週

何のひねりもないタイトルで申し訳ない。

 

先週の放送は所ジョージ。以前放送したものの再編集版であるが、未公開部分を多く使っており、情熱大陸がふだんどれだけ「使わないVTR」を撮っているか知ることに。「こんな時代だからこそ所ジョージの生き方に学ぶ」というコンセプト。

 

所ジョージの生活のコンセプトはごくシンプルであり「自分が楽しいと思うことを楽しいと思うままに行う」である。朝は早起きして日の出を見ながら畑仕事をし、昼間は毎日のようにあるレギュラー番組をこなし(この芸歴で系列局含めキー局全てにレギュラーを持っているのは凄い)、夜は自宅で家族とともに食卓を囲む。この時間が一番幸せだという。晴耕雨読ではないが、自分のやりたいことをストレスなくやれているという、人生の究極を体現している。所さんは「面白いことは気付いていないだけでどこにでも転がっている」と。

 

しかしその話も情熱大陸再編集に加え、所本人の番組である「目がテン!」でも2週にわたって私生活に密着されたのを見ると「さすがに密着しすぎだなあ」と思った。いや各々の番組は悪くないし、自分が全部見るのがいけないんだろうけど。そして中身的にもほとんど変わらなかった。どうせなら番組名だけ変えて同じ素材使い回ししていたほうが面白かったかも。

 

そして「詰まるところ人生を謳歌するには最低限のお金は必要」だと気付かされます。ある意味一番厳しい現実を突きつけてくれます。

 

今週はCGクリエイター夫妻のTELYUKA。不気味の谷を平気で超えるCG女子高生の作成に心血を注いでいる。もう画像見てあきれてほしい。

www.mbs.jp

リンク埋め込み先の画像の真ん中にいる女子高生がCG。にわかに信じられないが、制作過程を放送しているので辛うじてCGだと認識するレベル。これ以上本物感が増してくると、人間がCGに乗っ取られるというありがちなSF的展開が見えてくる。

 

自分は素直に「これがアダルト業界に波及してきたら、なんかもうわけわかんないことになるな」と思った。バーチャル女子高生に実体はないのだけど、たとえばこれがAVに搭載されるレベルになったら、女子高生では絶対にないけども18歳未満のアダルト作品に区分されそうな気がして。リアルの追及は今までグレーゾーンだったものを確実にクロにするのかもしれない。技術の進歩は人間を必ずしも幸せにしない。遠い目をしながら将来を憂うオジサン。

 

先週も今週も、自分は情熱大陸を見る資格がなかった。

 

そうは言っても綺麗事

プロレスラーの木村花が亡くなる。

 

詳細は発表されていないが、おそらく自殺なのだろう。「テラスハウス」に出演中だった木村。番組中に起きた事件での木村の振る舞いが良くなかったらしく、視聴者から本人のインスタグラムに誹謗中傷が絶えなかったようだ。この件に関しては「叩かれている人がいる」ということすら知らなかった自分からすれば、逝去の一報を見たときに「ん?若くしてレスラーが亡くなったけどもリング中の事故か?」とか思ったら全然違ったのだ。テラスハウスとプロレスに明るくない人はおそらく自分と同じような印象だったのではないか。

 

んでまあ今話題の中心になっているのが「有名人に対する誹謗中傷が遂に自殺者を出した」ということ。亡くなる直前のインスタグラムには死を予感させるような書き込みがあり、また以前から誹謗中傷に悩んでいたという話もあることから、それが引き金になっていることは疑いがないのだろう。

 

この一件で、普段から誹謗中傷される側の芸能人が怒涛の勢いで「誹謗中傷は許さんぞ」という流れになっています。そりゃあそうですね。死者が出るまでとどまるところを知らなかったのだから言いたくもなる。ただ、自分のような最低な人間はこの状況を「ここぞとばかりに」という言葉で表現してしまいたくなるんですけどね。まあそれはいいや。

 

基本的にSNSやネットで本人に届くように誹謗中傷をぶつけてくるのはバカしかいません。面識があればまた別ですが、互いに面識がない相手にそれがどんな的を射た意見であっても、口悪く意見をぶつけるのはそもそも無礼です。どんなに正論でも、礼儀がなってない奴にマトモな議論なんかできるわけないですから。ただまあ、哀しいかなそんなことが分からないバカは今も昔も存在し、それを認めることから世界の多様性は始まります。

 

なんにせよ誹謗中傷を本人に投げつけていた人間を全く擁護するつもりはないんですけども、一方で自分は「これは番組の構造的な限界だなあ」と思うのです。

 

テラスハウスは炎上含めたネット上の反応をそもそもの要素として構造している番組だと自分は思ってます。

 

番組の楽しみ方ってのは様々ですが、いわゆる「リアリティショー」ってのは「他人の私生活を覗き見する下世話さ」に本質があります。誰が何と言おうと本質は「下世話」です。テラスハウスをオサレ気分で楽しんでいる人は認めるかどうか分かりませんが、下世話です。「バチェラー」なんかは下世話がアメリカサイズで振り切れているのでエンタテインメントとして分かりやすいですけども、恋愛を扱おうと結婚を扱おうと性欲を扱おうと、どれも下世話であることに変わりありません。

 

本質が下世話であるものは、悪口と親和性があるのは当然ですよね。悪口は下世話な話題の王道ですから。だからテラスハウスを見て悪口を言うというのは、なんも不思議なことではなく、王道の楽しみ方でしかありません。番組側が南海キャンディーズ山里をレギュラーに配置して悪口を言わせているのは「そういう楽しみ方」を番組が提供しているにすぎません。

 

だから番組を見た人が「木村花ムカつくわー」とか「嫌い」とか「早く卒業しろ」とか言うのは、全然不思議なことではないし、その行為自体咎められるものではないのです。だってそういう楽しみ方ができるものだから。ただ、間違ってはいけないのが、その悪口の向かう先は「本人」であっていいわけがないということ。悪口はあくまで「番組の中」に向けられるべきであり、テレビの中の出来事である以上生身の出演者に向けずに、日記に書くか知り合い同士で話していればいい。それを誰もが見られるように発信したり、ましてや本人に直接ぶつけてしまうのは、やっぱり「どうかしてる」ということになる。

 

昔は本人に直接言う手段がなかったので、テレビ局に抗議の電話や手紙が殺到していた。逆に言えばこれが「本人に届かない防波堤」になっていたのだけど、今は直接届いてしまうから厄介だ。SNSの罪は「本人に直接届いてしまうこと」だけで、「なんら自分とは関係ないテレビの中の人の悪口を言う」のは今になって始まった行動ではないだろう。むしろ50年前にSNSがあったら、もっと酷いことになっていたのではないか。バカの割合は今も昔もそんなに変わらないでしょう。

 

だから自分は「“本人に届く”誹謗中傷」はよくないと思うが、「悪口をいう楽しみ方」を否定する気はない(そもそも自分がそっち側の人間だという自覚がある)。悪口を「共通の話題」としてネット上で盛り上がるというのも楽しみ方として自分は許容できると思う。しかし誹謗中傷として本人に届いてしまったり、誹謗中傷を受けた本人に対するケアもままならず出演者を死に追い込んでしまっている以上、「良くも悪くも視聴者を煽ることで、ネットで盛り上がっていると対外的にアピールすることまでを番組の構造に組み込むやり方」はリアリティーショーの在り方としてもう限界なんだと思う。

 

こうやって死者が出ようとも、SNSがある以上有名人に向けられる直接の誹謗中傷はなくならないと自分は思っている。死人が出て「その死に関与したことで処罰される」というリスクは死者が出ようと出まいと最初からそこに横たわっているものだ。しかし想像力のないバカは「自分はそうはならない」と思って、あるいは何も考えずに同じことをやり続ける。だから有名人がこれを機にどんなに声高に叫んだところで「しばらくしたらまた戻りますよ」としか思わない。思わないから「ここぞとばかりに」なんて言葉が自分から出てくるのだ。

 

自死の原因はバカによる直接の誹謗中傷かもしれない。それと同時に今回の自死を誘発したのが「ネット上で展開される誹謗中傷を含めた毀誉褒貶を、番組をバズらせる要素として内在させている番組構造」であり、テラスハウスに限らずリアリティーショー全般がこの番組構造を内在しているのだとすれば(していると思っているけど)、この手の番組が今のまま同じくあり続けるのはちょっと無理なんじゃないかと。

 

「本人に対する誹謗中傷」はどんなに有名人が声高に叫んだところでなくならないだろう。一方で、大勢で悪口を言う楽しみ方も下世話ではあることを認めつつも自分は否定したくない。しかし、これらがイコールになることで自死を生む構造の番組はやっぱり作ってはいけないんじゃないか。

 

「本人に対する誹謗中傷はやめろ」は全然間違ってはいないし大事な話なんだけど、今回の問題はそんな単純な話でもなかろうという気持ちが強い。それなのに有名人がこぞって同じことを言い出すので、「気持ちはそりゃ分かるんだけど」と思いつつも、SNSがある以上本人への誹謗中傷はなくならないという立場の自分は「そうは言ってもその主張は綺麗事でしかないよな」と思ってしまうのである。共感はしつつも若干の違和感。かなり丁寧に書いたつもりだけど、うまく伝わっている自信がない。

 

 

青春ばかちん料理塾

どうも、ハトヤです。世も末ですね。

 

現役の検事長が賭け麻雀を直近でしていたことがバレたみたいです。本来ならば絶対にバレないような座組みだったみたいですが、バレてしまうあたりがショボいです。政権に大甘の判断をくだしつつ、自分にはもっと大甘だったことが情けなくて仕方ないです。賭け麻雀とか賭けゴルフとか、いわゆるオッサンの世界では慣例的なことなのだろうが(犯罪の意識なんてつゆほどもないはずだ)、それが検察の人間となると話は全然違う。職業倫理とはなんなのでしょうかね。

 

その麻雀を囲んでいたのが朝日新聞産経新聞の記者だったというから、もうズブズブのズブですよね。検事側から何をリークされていたのか、その見返りは何だったのか。新聞社は何か明らかにするんでしょうかね。しないでしょうね。できないでしょうね。

 

賭け麻雀の話題で面白いのは蛭子さんと「爆笑問題カーボーイ」内だけです。いいかげんにしてもらいたいです。

 

それはともかく、「浦和から持ってきて!」の話。

 

テレ東の映像アーカイブが浦和にあるらしく、そこからテレ東のプロデューサーたちが見たい蔵出しの映像を持ってこい、という企画。要するに過去映像の寄せ集めなのだけど、どんな映像が出てくるか楽しみであり、ただの総集編というわけでもない。

 

初回は「モヤさま」でお馴染み伊藤プロデューサーのチョイス。その中に後藤真希の映像がありました。番組の正式タイトルは「生中継!後藤真希モーニング娘。卒業!ファイナルステージ」らしいです。wiki先生より。翌日の自身の誕生日のライブでモー娘。卒業を控えた後藤。ライブを見ることが出来ない人のために用意された特別なステージである。これだけでも当時の後藤の人気がよく分かるというもの。

 

伊藤Pも触れていたが、今の人からすれば「なぜテレ東が?」と思うかもしれないが、モー娘。を生み出したのがテレ東の番組「ASAYAN」であり、モー娘。とテレ東の関係はどこよりも強かった。だから新メンバーのオーディションとかも独占放送されていた。また、「ASAYAN」における新加入した2期メンバーを説教する中澤裕子の映像は、テレ東の過去VTRでは鉄板の部類である。

 

というわけで検事と新聞記者と同じくらいズブズブの関係のモー娘。とテレ東がタッグを組んだこの番組。今回なぜ伊藤Pが選んだのかといえば「やらかしたVTR」としてだ。何をやらかしたのかといえば、「後藤の最後のメッセージが途中で切れて番組が終わる」という、一番やってはいけないやつ。メンバーからのメッセージが長引いて(泣くことによって時間が押していった)最後どうしても間に合わなかったという。仕方ないといえばそれまでだが、熱心なファンはそりゃあ怒り狂う。

 

当時自分は大変熱心なモーヲタでしたから、見ていないわけがなく、それどころかしっかり録画までしていたはずだ。山のように積んであるVHS(たぶん死ぬまで整理されない)の中に保存されているだろう。しかし、正直に述べると「こんな番組全然記憶にない」のだ。

 

2002年は自分の中でもまだまだ娘。熱が盛っている時代で、後藤のラストシングルになる「Do it !Now」は娘。の中でも自分の好きな曲の上位に入る。だからVTRを見た瞬間「ああ、これはドゥイナの衣装」とかいう記憶は甦ってくるんだけど、そもそもこんな放送があったのかなんて微塵も思い出せない。微塵も思い出せないから、後藤のコメントが切れた放送も、そしてそれに対して怒り狂った(かもしれない)ことも、何もかも覚えていない。北海道で放送されていない、なんてことはない(はずだ)。

 

何がショックかって、自分の中での娘。に関するあれやこれやは、自分の10代後半から20代前半にかけての記憶の中核をなすものである。変な言い方をすれば「娘のシングルや在籍メンバーを起点に物事を思い出す」のだ。たとえばこの放送があった2002年は自分は大学一年生であり、大学生活をエンジョイするどころかやっぱりずーっと娘。を追いかけており、またこのブログの原型となるようなホームページを作成したりしていた。けどそんな記憶よりも「2002年かあ、ドゥイナの頃かあ」とか思い出すわけです。

 

だから、後藤真希卒業という一大イベントを覚えていないわけがない、と自分では勝手に思っていたのだけど、いやいや全然覚えていない。自分はモーヲタという過去と同時にあの頃の自分の記憶もちょっとずつ忘却の彼方に置き去ろうとしているのだ。それが哀しい。

 

過去映像を引っ張り出すことは、自分の昔の記憶も同時に引っ張ってくる作業である。VTRの懐かしさは当時の自分を懐かしむことでもある。しかし引っ張ってきた映像も、そして当時の自分も思い出せないのでは、これは困る。見ていることは確実だ。しかし見た記憶がないし、どんな中身かも思い出せない。自分は本当に過去を生きたのだろうか。実存が危うい。もしかしたら賭け麻雀していたかもしれないけど、それも思い出せない。

 

絶え間なく注ぐ愛の名を

ナインティナインのANNが電撃復活。

 

自身の失言によって番組そのものが窮地に立たされていた「岡村隆史のANN」だったけども、翌週相方矢部が「公開説教」という形でラジオに久々に登場。その次の週も岡村のサポート役として登場。そして今週、「さすがに3週はないだろうし、そろそろひとりの通常営業に戻るんだろうな」と思っていたら、冒頭から矢部が登場。しかもタイトルコールも行われず発表があるみたいなことを言ってるので「あ、これはナイナイのANN復帰するんだな」と思ったら、案の定という形。

 

いちラジオリスナーとして、この事態は「願ってもない最高の形」であることは間違いない。

 

岡村のピンチに気持ちが離れていた矢部が助け舟を出し、そして再び一緒にラジオが動きだすなんて、ドラマチックでコンビ愛を感じるし、そして何より「どう考えても岡村ひとりのラジオより面白い」という意味で、喜ばないほうがどうかしていると思う。これを機に昔のリスナーが「また聴いてみよう」と思ったりもするだろう。

 

発表された直後のtwitterのタイムラインを見ていたら祝福と歓喜であふれていた。そりゃそうだ。騒動も一段落して、それでもなおかつ岡村ANNに注目して聴いていた人間が、この発表を喜ばないはずがない。

 

でも自分は正直なところ「ん?」とは思ったんですよね。

 

もちろんラジオリスナーとしては嬉しいことしかない。しかし、この話が「雨降って地固まる」「ピンチはチャンス」的な「美談めいたもの」になればなるほど、今回の事態の素地にある問題を、悪く言えば「利用した」ことになってしまい、単純に「それでいいのか」とは思えるわけです。

 

カズレーザーは矢部の説教の時から「コンビの問題に落とし込むのはよくない」と指摘していた。自分はこの意見を目にしたときに「まあそうなんだけど、考えられうる解決策としては間違ってないと思うし、そこは許してあげてほしいなあ」と思っていた。しかし「ナイナイのANN復活」という形に落とし込んでしまうと、カズレーザーの指摘が完全に図星ということにならんだろうか。

 

「ナイナイのANN」が復活した大きな理由として「ラジオがやりたい岡村を今このまま一人でやらせるわけにはいかず、ブレーキ役が出来るのは矢部をおいて他ない」というのはわかる。「こうなった以上、岡村隆史のANNが終わるか、ナイナイのANNになるかどちらかだ」と矢部は思ったという。だから事態だけ見れば美談の側面が強くなるが、その実は「やむにやまれぬ事情」であることも分かる。

 

けどやっぱり事態を遠くからぼんやり見れば、岡村の失言をナイナイラジオ復活という美談に「すり替えた」と思われても仕方ない気がします。本当はそうじゃないことは聴けば分かるし、調べれば分かる。しかしここで最大に配慮すべきは「そうじゃない人たちにどう思わせるか」だったんじゃないのかな?

 

「善きリスナー」はこんな説明しなくてもちゃんと聴くしちゃんと理解できるし、それらをひっくるめて嬉しいに決まっているのだ。しかし今回の問題がDJとリスナーという内側の関係を過信しすぎ、そうではない外側に大きく伝播したからこそ起きた問題であると考えるならば、今回の「ナイナイANN復活(を喜ぶという態度)」は外側にどう伝わるのだろうかね。もし自分が本気で今回の問題に怒っている人だったならば、やっぱり「なんだそれ」って怒ると思うのです。

 

矢部は公開説教の際に「岡村の発言を許容した空気はスタッフのせいでも、リスナーのせいでもある」という旨を述べた。今回の復活劇はどうだろう。スタッフは涙ぐみ、リスナーは歓喜する。これって矢部が指摘した「空気」そのものじゃないのか。そりゃ素直な気持ちになればこういうことになるって。周囲から愛されているから岡村はラジオを続けられてきたわけだ。しかし「それがいかん」の流れから矢部が復帰することになってまた同じ空気出されたら、「善きリスナー」ではない人たちからすれば怒りの対象にしかならんというのは、気付くべきであり最大に配慮するべき点ではなかったのか。

 

今回の復活劇、自分は「おお!」と思う反面「これを素直に喜べるほどのリスナーではないな」と感じました。今回の騒動で学ばなければいけなかったのは、何も岡村だけではないはずだ。

 

 

ひとつの目標

「あたらしいテレビ」を見ました。

 

NHKが放送した「今、そしてこれからのテレビはどうなるのか」ということをリモートで討論した番組。毎年年初に放送されている「新春テレビ放談」の緊急コロナバージョンみたいなものである。出ているメンバーもそんな感じ。

 

「新春テレビ放談」に関して毎年見て思うのが「自分の思っているのとちょっと違う」であり、テレビの中の人(作っている人)が思うものと、ここにいるオッサンが思うものとは乖離があって、そして間違っているのは自分なのだろうということ。だったら見なければいいんだけど、定点観測は大事なのである。

 

んでまあ今回も大体そんな感じになるかなあ、と思っていたのだけども、案外面白く見ることができた。それもひとえにフワちゃんのおかげだと思っている。

 

番組の後半で、コロナ以降のテレビはどうなるのかという話題に。バラエティであればそこまで大きく変更はないだろうけども、テレ東の得意分野である素人を取材する系の番組は厳しくなるだろうと佐久間P。一方脚本家野木亜紀子はキスシーンなど濃厚接触を思わせて視聴者の感情移入を妨げるものは使い方が難しくなるだろうとの見解。いずれもその通りだろうなあと思った。

 

そしてこれらの話を受けた後で意見を請われたフワちゃんが放った一言に自分は「そうだよなあ!」と強く思った。その一言は

 

上島竜兵のキスこれからも見たいよ」

 

だ。上島竜兵のキスとはなんぞや、という人はあまりいないと思うが、簡単に説明すると、上島竜兵ダチョウ倶楽部のメンバーであり、様々なお約束芸を持っている。出演者の誰かとモメたときに、その仲直りの儀式として行われるのがキス。もちろん喧嘩をはじめるところからが芸なので、始まった瞬間に安心感がある。

 

もちろん今はドラマのキスシーンはおろか、バラエティもリモート収録がメインなので、実際に上島と誰かが喧嘩することもないし、キスで仲直りもできない。言うまでもなく異常事態なのだ。今後リモート収録であることを逆手にとって、有吉あたりが上島にケンカをふっかけて、そしてキスの流れまで持ってくるけどもキスできない、なんていうものが見られる可能性もあるが、あくまでお約束あってのこと。そのお約束が出来ないというのはやっぱり哀しいことである。

 

フワちゃんの発言は番組後半にされたものであるが、冒頭の出演者紹介の段階でこの発言がピックアップされていて、自分はこれでがぜん見る気になった。フワちゃんがこんな発言をしているならちょっと期待できる、と思ったんだもの。どのような経緯でこの発言に至ったのかが上記の通りである。

 

ドラマにせよバラエティにせよ、そこに今まであった面白いものがそのまま存在してほしい、という願いを込めたかどうかは分からないけども「上島竜兵のキスが(テレビで)見たい」という発言は、自分の心に割と深く突き刺さった。今までの日常が完全に戻ることはもうないのかもしれないけども、それでもテレビの中で上島竜兵がキスできるくらいまでには戻ってほしいし、それをテレビの中の目標するのはアリではないのかと思う。

 

というわけで、バラエティ番組の「通常営業復帰宣言」には、是非とも上島竜兵のキスで幕を上げてほしいと思う。竜ちゃんのキスで素直に笑える日が来るまで、テレビは今しばらくの辛抱か。