化膿

今回の「しくじり先生」もなんか酷かったですね。

 

最近ここで「しくじり先生」について「Abemaで完全版やってるんじゃねえバカヤロウ」しか書いていないような気はするんですが、今回はその遠吠えすらするのが可哀想な感じです。

 

先生として登場したのは春名風花。通称はるかぜちゃんですね。「ウソ泣き子役」としてちょっと有名になった人。現在18。年齢=芸歴なので(赤ちゃんモデルやってた)すっかりもう30くらいのイメージすらあるんですが、まだまだ若者。

 

んでまあ自分はてっきり「SNSでイキってしまった先生」かと思ったんだけど、「銭ゲバ」先生として登場。そりゃあ0歳から稼いで、なんなら自分の親よりも稼いでしまったら価値観がお金に置き換わってしまうのは何ら不思議ではない。その例として弟のおもちゃをお金で買う(自分が稼いでいるからとお金でぶんどる)なんてエピソードが登場する。稼いでいる子役あるあるなのかもしれないが、その時点で親がしっかりと「それは違う」と方向修正できなかったことが原因だろうなあ。半分本人のせいだけど、これは半分親のせいなんじゃないかと思った。

 

というわけでお金基準の価値観をこじらせてどんどん周囲から嫌われていくはるかぜさん。そりゃあ嫌われるわな、という感じ。twitterで発信するようになってからは嫌がらせも受けるようになり、自分がちょっと違っていたんじゃないかということに気づき、「お金じゃ買えないものがある」という至極ベタな教訓で地上波版は終わる。Abema版は知らん。

 

で、これを見て自分の素直な感想なのだけど。

 

はるかぜさん現在進行形で嫌われてませんか?

 

今回のエピソードが20年前の出来事で、そこから反省した先生はイチから人間関係を構築し、現在では多くの人に愛されているなんて話で終われば「しくじり先生」としての役目は全うしていると思うんだけど、たかだか数年前の出来事。みんなはるかぜさんの「当時」を覚えており、誰も許しちゃあいないと思うんですよね。特に小学校の同級生、当時子役として仕事で接したADとか共演者に感想を聞いてほしいですよ。みんな一様に「イヤなやつだった」って言うんじゃないっすかね。

 

そして何より大事なのは、地上波の30分の短い時間で、はるかぜさんの「いやあこの人友達いないんだろうなあ」というのが伝わってきたこと。もちろんエピソードも酷いんだけども、なんだろう、その振る舞いや思考回路が透けて見える。そしてこれは一朝一夕でなかなか変わらない厄介なやつ。本人としてはそれは伝えるつもりじゃなかったのかもしれないけど、伝わってしまうんだよなあそういうのは。

 

もちろんはるかぜさんが遅かれ早かれ諸々「気づいた」のであれば、それはそれで素晴らしいことだし、これからちゃんと人間関係を構築すりゃあいいので悪いことじゃない。しかし今はまだその傷口が完全に塞がっていない。「しくじり先生」としての面白みが出るのは傷口がふさがり、かさぶたになり、そしてキレイになってからである。今のはるかぜさんはこの件に関して傷口がふさがっていないどころか、完全に化膿した状態だろうよ。これからどうやってかさぶたにしていくか、の段階でここに引きずり出されるのはやっぱり無惨だよなあ。

 

なので自分は見ていて「この子はまたこれで金を得て、そして人間関係を失っていくんじゃないのかなあ。大丈夫かなあ」と思ってしまった。「当時の」はるかぜさん基準で行けば、自分より収入のない人間に言われても響かないだろう。そしてこちらの立場から言えば、はるかぜさんが今後どうなろうと知ったことではないのである。だから、まあ、いいんじゃないかな。

 

絶望でしかない

川崎で起きた事件は凄惨としか言いようがないわけです。

 

自分が覚えているだけでも、一度に複数の人間に殺意を持って襲いかかった「無差別殺人犯」は何人かいる。具体的な事件は伏せるけども、そのいずれも自分より弱い子供や女性を襲撃するものが多かったように思う。自らの「殺意」を遂行するために確実に殺せる人間を襲うというのはとても卑怯である。これは断言したい。今回の事件は大人も襲われてはいるが、そもそものターゲットとして子どもを狙っている時点で根っこは同じである。

 

しかし今までの事件で大きく違うのは、犯人は「最初から死ぬつもり」だったということだろう。もちろん犯人が死んでしまっているので推測でしかないのだけども、犯行の素早さ、そして自分の首を切りつけるまでの躊躇のなさを考えれば、結果がどうであれ死ぬつもりだったと考えるのが妥当だろう。

 

事件が起きてから報道はこの話で持ちきりだ。当たり前だろう。何の罪も落ち度もない人々が犯人の身勝手によって命を落とす。こんなにやりきれない話はない。そしてその怒りを、犯人に対する処罰感情をむき出しにしようとも犯人はもう死んでいる。「死んで償え」という言葉はよく耳にするが、実際に死んでいる犯人に対しては何の意味も効果もない。結局我々が言うところの「死んで償え」は本当に死んでいる人間に対しては無力でしかないことを思い知らされてしまったのだ、不覚にも。

 

これからの世間の動きといえば「マスコミが背景を報じようとして取材過熱」「被害者感情を無視した報道」「ネットで批判」という決まりきったコースをたどるのだろう。マスコミも大概にしろよ、とも思うが、それをいつも通り居丈高に「マスゴミ」といって溜飲を下げているネットバカももう落ち着けよ、と思う。報道しなけりゃしないで「なぜ報道されないのか、上級国民か」とか言い出すわけだし。進歩がないのはお互い様だ。どっちも気付いてほしい。

 

もはや「何で殺したのか」といういわゆる「心の闇」を探るのは、何の解決にもなっていないことは、もうみんなうっすら気付いている。たぶん報道するマスコミ側も気付いている。しかし「心の闇」を探ることで「自分とは違う」と落ち着く人たちが、まだまだ多い。自分と違うことで相手を思いっきり犯人扱いし、非難することができるからだ。けどその「自分の安心」を求めても、当たり前のように同じような事件は起きる。全く意味がない、とは言わないけども、もっと他の報道のアプローチはあるんじゃないかとは思う。

 

自分はこの事件を見て「あー、もう絶望でしかないな」と思った。それは事件の凄惨さもさることながら「捨て身の人間にはあらゆる防衛策は意味をなさない」ことが分かってしまったからだ。

 

一般的にスクールバスというのは通学手段として安全な部類に入るだろう。もちろんバスの事故のリスクはあるだろうが、バスさえ安全に走れば外部からの危険にさらされることはない。今回のバスがどのような事情で走っているかは分からない。単に学校から遠い生徒に対する移動手段だったかもしれないし、それこそ安全面を考慮したうえでのバスだったのかもしれない。しかしそんなバスでも捨て身の人間に襲われればひとたまりもないのだ。

 

捨て身の人間の怖さは「何をしても死ねば終わる」と開き直れることだ。「死ぬこと以外はかすり傷」なんてキャッチフレーズの編集者もいるが、まさに死ぬつもり、しかも他人から処刑をされるのではなく自らの意思でもって死を選ぶ人間には一切の道徳も説教もムダ。そして対策もできない。考えれば考えるほど絶望でしかないわけだ。

 

そんな絶望も、自分の場合はももクロちゃんヤンキースタジアムでわちゃわちゃやってる姿を見て少しは回復するのです。犯人にもそういう「神」がいたらよかったのになあ、とはちょっと思うわけですね。日本人はオウム以降宗教アレルギーが大きいわけですが、精神の安定を図る意味での「神」はやっぱり必要な気がします。

 

表記とジャーナリズム

丸山穂高は正直な男ですよね。全然褒めてませんけど。

 

人間として正直であることは悪いことではないと思いますが、こと政治家において「正直」であるのは「無能」であるとも言えるんじゃないですかね。「北方領土を戦争で取り返す」というのは、ひとつの考えとして「絶対に持ってはいけない」思想だとは言わないけども、それを北方領土の返還に長い間尽力してきた人に対して向けるべき思想ではないですね。これを擁護している人間の気が知れないです。

 

丸山の「言論の自由」という言い訳もお粗末すぎますが、反論の機会が与えられたにも関わらず体調不良で逃げたというのはもうウンコ以下ですね。さらに丸山は北方領土で無断で外出して「女を買いたい」などとのたまっていたようですね。本当にウンコと呼ぶにも勿体ないです。

 

丸山がウンコ以下の政治家であることは自分の中で争いがないのですが、自分は一連の報道に関してとても気になったことがあります。まずは以下のリンクの記事を一読頂きたい。

 

こちらがスポーツ報知。

hochi.news

こちらが東スポ

www.tokyo-sports.co.jp

 

どちらも丸山に関する記事である。両者の違い、タイトルでお気づきだろうか。

 

「おっぱい」の表記である。

 

スポーツ報知(および日テレ「スッキリ」におけるテロップ)では「オッパイ」とカタカナで表記している。一方で東スポは「おっぱい」と平仮名で表記している。この違いは些末なようで、本当はとても重要な問題を孕んでいる。と思う。

 

自分からすれば「おっぱい」表記が圧倒的に正しい。なぜなら「おっぱい」という平仮名の表記には「おっぱいがおっぱいたる所以の柔らかさ」が字面から伝わってくる。一方で「オッパイ」には「女性の胸についている脂肪の塊」という物体としての情報しか伝わってこない。

 

別に報道であれば「オッパイ」で構わないのではないか。そう思う人もいるかもしれない。しかし丸山の「おっぱい」の発言には、あからさまに「丸山のスケベな念」がこもっている。この丸山のスケベさを字面で表現するならば、やはり「おっぱい」なのではないか。ジャーナリズムとはより正確に真実を伝えることにあるのだとしたら、それは「オッパイ」ではなく「おっぱい」なのではないか。東スポは冗談みたいな記事が多いかもしれない。しかし真のジャーナリズムはちゃんと「おっぱい」の表記に宿っている。あるいは東スポこそ真のスケベだともいえる。スケベとジャーナリズムの両立。自分は東スポになりたい。

 

 

丸山穂高よ、真の言論の自由とはこういうものだ。

 

そっとしておこう

 

・元KAT-TUN田口淳之介および小嶺麗奈大麻所持で逮捕

感想としては「やっちまたなあ」と「ドラマの再放送大丈夫かよ」しかないわけですが、残されたKAT-TUN的には「いつからやってんのか」というのがとても大事ですよね。大して関係ないとは思うけども、やっぱりこういうときに改めて名前が出てしまうのは気の毒な話です。

 

いっぽう小嶺麗奈といえば金八チルドレンなわけですよ。第4シリーズ広島美香。当時バリバリの中学生だった自分はテレビにしがみつくように第4シリーズの金八を見て、広島美香に恐れおののいたわけです。

 

金八では第7シリーズでドラッグの危険性を扱ったわけです。第7シリーズといえば殆どへいひの(濱田岳)無双で、ドラッグ中毒になってしまう八乙女光(現「ヒルナンデス!」の人)の熱演も霞んでしまったわけですが、金八が「ドラッグをにくめえええ」と叫んだ回はそれなりに覚えていたりもする。あれだけ金八が叫んだのは何だったのか、と言いたくなりますわな。

 

「遂に金八チルドレンも逮捕されたか…」とか感傷に浸ってはいましたが、そういや梨花の妹(自分も大好き第5シリーズ出演)も逮捕されてたなあと思い出した。シンナーだったっけか。自分で書いておいてなんだけど、そっとしておいてあげよう。

 

・令和版「白い巨塔」放送始まる

岡田准一主演でテレ朝が放送。田宮二郎版と唐沢寿明版はともにフジの制作であるが、最初に連ドラ化された佐藤慶版はテレ朝の制作なので、テレ朝的には「白い巨塔はそもそも我々のもの!」感があるのかもしれない。

 

自分は田宮版と唐沢版を見たし(田宮版は無論再放送)、そして小説も唐沢版のときにハマって読んでしまったクチなので、自分の好きなドラマ10傑には間違いなく入るくらいに思い入れはある。だから今回の岡田版も期待半分、不安半分で見たわけです。

 

正直岡田准一は上背に迫力に欠けるのだけど(鵜飼を演じている松重豊がデカいという理由もだが)、その眼光と迫力はなかなかのもの。松山ケンイチは何やらせても出来るので心配なし。寺尾總の東教授は石坂浩二には負けるかもしれないが、悪くない。

 

今回特筆すべきは「なんか知らんけどもエリカ様エロい」である。沢尻エリカが演じる花森ケイ子は財前の愛人で医者がよく訪れるクラブのホステスで、半ば政略結婚だった妻にはない財前の心の拠り所である重要な人物。選挙、裁判で弱い部分を見せられない財前が弱さを見せるドラマ上でも必要なシーンになる。

 

岡田版のエリカ様は巧みなカメラワークで「パンツが見えそうで見えない」という、視聴者に謎の挑発をしてきます。ドラマ見ているほうも「エリカ様のパンツが見えそう!」と思うと気が気ではありません。あんまドラマの本筋と関係ないところで盛り上がってしまうのはマイナスだとは思うのですが、そうはいってもエリカ様。今花森ケイ子を演じさせるならばエリカ様は筆頭候補だと思うので、間違ったキャスティングではないです。撮影する側が若干スケベなだけです。

 

岡田版のエリカ様もそこそこ素晴らしいだけに、平成版の黒木瞳の「なんちゃって感」が改めて惜しくなる。もちろん当時は当時でベストなキャスティングだったとは思うんだけど、田宮版の太地喜和子が本当に本当に素晴らしいので(たぶん田宮版で一番素晴らしい)、この二人に比べるとなあ、というところ。まあ今更言う話ではないんですけども。それはともかく、とりあえず最後まで見たらまた感想書きたいと思います。

 

そういや唐沢版で佐々木庸平の息子を演じていた中村雅俊の息子も大麻所持で捕まったなあ。そっとしておこう。

 

・まりや

headlines.yahoo.co.jp

よく記事を読んだらまりやは巻き込まれただけで、悪いのは姉のほうだと思うのだが、色々ひっくるめてそっとしておこう。

 

青春の放熱

おじさんがももクロちゃんのアルバムについて感想を述べるという至極どうでもいい更新なので好きな方だけ。

 

ももクロちゃんのニューアルバム「MOMOIRO CLOVER Z」はとっても素晴らしい。まあ発売されるアルバムは毎度毎度素晴らしく、かつて「まあ売れるんでしょうけど」とクサして数年干された人がいるとは思えない出来です。仲直りしてるからいいんですけどね。

 

今回アルバムの初回限定盤Bには4人で改めて収録した昔の楽曲が「ZZver.」として収録されている。*1ももクロちゃんはライブで割と古い時代の曲も歌うグループなので、全然古い感じはしないのだけど、いかんせん今は4人であるし、歌も確実に上手くなっているし、当時の曲と今の曲とでは様変わりしているものもちらほら。グループの仕切り直しとして、長いこと聴いている楽曲のリアレンジはファンには嬉しい仕様だ。

 

正直なところ5人(あるいは6人)が4人になったところでの「パワーダウン」感はあまり感じなかった。もちろんリアレンジする際にそこのところは細心の注意を払ってはいるだろう。しかし同時に楽曲制作当時のお世辞にもうまいと言えなかった歌が、10年のときを経て確実にパワーアップしているところが大きい。

 

特にリーダー百田夏菜子の歌声はとても素晴らしい。歌唱力という意味では「普通」なのだろうが(もちろん昔に比べれば格段に上手くなっている)、「普通」じゃないのは彼女の歌声。こちらの感情を気持ちよく揺さぶるのだ。今風の言葉を使えば「エモい」のである。昔は歌唱力の拙さからくるやや叫びにも似た歌声にその片鱗はあったのだけども、今は完全に気持ちが歌声に乗っているという感じ。もちろん最近のライブではこの夏菜子ちゃんの歌声を聴くことは出来るのだけど、これを改めて音源として収録してくれるのは有り難い限りである。

 

なもんで、どの楽曲もリアレンジされたものは素晴らしく、「4人のももクロ」の良さをストレートに感じることが出来る。基本的にリアレンジされたものは全ておすすめだ。しかし昔の楽曲を長く聴いていれば聴いているほど、元の楽曲に思い入れも強くなるというもの。早見あかりの歌声が、有安杏果の歌声が聞こえないことで違和感を覚えることも物足りなさを感じることもあるだろう。

 

自分はそこらへんあまり気にならない人間なので、どの曲も基本的には「おー」と思ったりしたわけですが、唯一「全力少女」だけが「上手いけど、前のほうが良かったかなあ」と思ったのです。以下理由。

 

「全力少女」は2011年に発表された楽曲であり、ファンの中でも人気の高い1曲である。初期ももクロのライブパフォーマンスを形容する「全力」という言葉が入っているという意味でも重要な曲であり、10代の恋する少女の心情を綴った歌詞は当時の彼女たちにシンクロするような曲でもあった。

 

しかし時は流れ、ももクロのメンバーもみな20代。最年少佐々木彩夏ですら今年で23なのである。もはや「全力“少女”」という歳ではない。ただし楽曲は楽曲であるから、今のももクロちゃんだって全力でこの曲を歌うのだ。ZZver.での「全力少女」は「等身大の自分たち」を歌う曲から「全力で恋する少女を応援する立場」に聴こえる。アレンジが多少しっとりしているのと、あとは全員の歌声が大人になったせいである。そりゃそうだ。

 

自分が元々の「全力少女」に感じているイメージは「青春の放熱」である。若くて歌唱力も表現力もなかった当時のももクロが「全力少女」というキーワードのもと、自分の出来ることを歌い、踊る。それは拙いかもしれないが、確実に10代にしか出せないパワーであり、当時の楽曲にはそのパワーが封じ込められている気がするのだ。ものは言いようであるが、当時の拙い歌声が楽曲の良いスパイスになっている。もちろんZZver.が悪いことなんて全然ない。しかしどちらかに軍配を上げるとするならば、「全力少女」に関しては僅差で旧ver.なのかな、と個人的には思う。

 

……とまあオッサンの御託はどうでもいいので、古くからのファンは限定版BでZZver.を、「ももクロしっかりと聴いたことないのよ」という人はベストアルバムからの今回のアルバムというコースで聴いてみてちょうだいな。ライブに行って泣くまでがももクロちゃんの楽曲です。

 

*1:2011からグループ名にZがついたので、それ以前に発表されて再収録された楽曲は「Zver.」として、さらに有安がいなくなり4人になって再収録された曲はガンダムにあやかって「ZZver.」となっている

己のサイズを知るがいい

「クレイジージャーニー」がとても面白かったです。前衛美術家の篠原有司男・乃り子夫妻の回。

 

以前SPで放送されたLA在住の日本人ネイルアーティストBritney TOKYOが取り上げられたとき、彼女がニューヨークで開いた個展に訪れたときに少し登場した夫妻。短時間ながら強烈なインパクトを残し、今回取り上げられるときに「あの夫妻か!」とすぐ分かるくらいだった。

 

御年87にして自身の作品同様パワフルな生き様にはただただ圧倒させられる。しかしそれは芸術家にありがちな相手を寄せ付けないようなものではなく、生きることが作品を生み出すことと同じであると言わんばかりにの圧倒的な生命力によるものだ。

 

自分のようなものはとてもではないが生命力にあふれている個体とは言い難く、日がなテレビと仕事の繰り返しで命をいたずらにすり減らしていると言ってもいい。だから本物の芸術家のような生命力にあふれた人を見ると、憧れを通り越して敬服してしまう。見ていて体の奥底から「ちゃんと生きろよ」と言われているような気がした。己の人間の、というより生命体としての小ささを思い知るわけだ。

 

 

ところで、あなたはチャンミーを知っていますか。

 

twitter.com

今をときめくクリエイティブキャット、チャンミーである。とぼけた味わいのネコである。ネコに見えないんだけど。たまに「美味しんぼ」ネタをぶっ込んでくるあたりが30代男性(主に自分)に好評です。

 

 

このたびチャンミーのグッズが札幌ロフト(札幌駅に隣接するエスタにある)で小さいスペースながら販売される、というtweetを見た自分は「これは行かねばなるまい!Tシャツ買わねばなるまい!」と意気盛んに足を向けたわけです。仕事中に(やめとけ)。

 

札幌ロフトは以前今は亡き五番館ビルにあったとき以来ずっと足を運んでいなかった(嘘みたいだけど本当の話なのだね)ので、エスタに移転して初めて行くロフトに完全に田舎者丸出し。完全に場違い感丸出しなスーツのオジサン(なにせ仕事中)がチャンミーに逢いに行くのだ。

 

ほどなくしてチャンミー発見。興奮に打ち震えてTシャツを手に取る。「ヒャッホー!これで明日からチャンミーTシャツ生活な!(「~~な」はチャンミーの口癖です)」とか思っていたら、その夢は瞬時に打ち砕かれる。

 

TシャツのサイズがMしかない。Mはさすがにキツい。

 

自分のTシャツのベストサイズはL~LLくらいです。Lで入らないことはないが、LLあればそっち、くらいの感覚。Mは厳しいのです。小さなスペースでの販売なのでLLはなくとも、Lは1着くらいあるだろう、と楽観視していたらまさかのオールM。これには自分も「着れんし、買えんな…」としょんぼりですよ。背中を丸めて仕事に戻りました。

 

これはロフト側やチャンミー側が悪いわけではありません。あの小さなスペースではサイズを用意するのは非効率ですから。生命体としての小ささはSSくらいなのに図体だけはLLな自分が悪いんです。

 

ちなみにチャンミーTシャツは通販もされておるので、別に札幌で直接買う必要はないんです。通販のほうがサイズも色もバリエーションも豊富なのです。素直にそっちで買えよ、ということですね。そうします。

チャンミーグッズな。|デザインTシャツ通販【Tシャツトリニティ】

 

 

生命体としての小ささを知り、図体だけはLサイズ。こんな自分には「梅ズバ」に出ていた玉井さんが腰を落として体操やっている姿を見て「チャイマのLOVEプロレスポーズと同じだからさすがにキレイ!」という感想を述べるしかできません。ありがとうございました。

 

f:id:nageyarism:20190516132342j:plain

 これは完全にチャイマのLOVEプロレスポーズ手前。ゆりやんがでかいな。仕方ない。

病院食かよ

「しゃべくり007」に指原莉乃ファンキー加藤

 

指原は卒業後バラエティ初出演、ファンキー加藤は騒動後バラエティ初出演ということで、指原はともかくファンキー加藤研究家の自分としては見逃せない一本となっておりました。そして見終わった結果が「別に見なくてよかった」である。

 

指原さんに関しては自他ともに認める「バラエティの女王」である。好き嫌いはともかく、現代のバラエティに完全に順応し、そしてその手腕をいかんなく発揮する。そんな女王が最初に出てくる番組が「しゃべくり007」である。

 

「しゃべくり007」はかつてオリエンタルラジオ藤森がいろんなことをぶっちゃけたせいなのか、はたまたレギュラー出演者が色々な方向からコントを仕掛けてくるせいなのか「芸能人にとっては大変な番組」というイメージがあるかもしれない。しかしその実、司会のくりぃむ上田をはじめとして「きわどいことを聞いてくるようで、ちゃんとNGの一線は守ってくる」という出演者にとってド安全な番組でもある。

 

だからこそ「大して喋りたくもないけども、バラエティに出て親しみを出したい感じ」の芸能人は好んで「しゃべくり007」に出演する。以前なら「スマスマ」という選択肢もあったのだけども、スマスマ亡きあと同じ枠で安全なこの番組が重宝されるのも無理はない。しかも漠然と「いろんなことをぶっちゃける」と思われていることも大きいんじゃないだろうか。それに何言っても否定されない。全肯定だもん。気持ちいいよな。

 

なもんで、今回ファンキー加藤がこの番組を復帰番組として選択したのは「ああなるほどね」という感じだ。NGなしとは言いながら本当のNGを巧みに避けて7人が話を振ってくれるから楽なんだもの。本当に全てを棄てて話す覚悟があれば「サンジャポ」「バイキング」「ワイドナショー」といくらでも茨の道がある。しかし芸能人は好んで「しゃべくり007」に出るのだ。我が身は可愛いよね。もしファンキー加藤が「サンジャポ」出るなら、そりゃあアンタッチャブル柴田呼ぶもの。

 

ちゅうわけで復帰作のファンキー加藤は突っ込んで不倫について聞かれるでもなく、かといってファンキー加藤の真骨頂である「褒められたい」は自粛モード(ただし全国ツアーで動員数をさりげなく放り込んでくるあたりに片鱗は見られた)で面白さもない。ただファンキー加藤の自粛期間の大して面白くもない話を十数分聞かされて終わり。これでは何も見る価値がない。

 

かといって指原のパートが面白かったのかといえば、それもまたNOである。指原はバラエティのプレイヤーとしては優秀だけども、指原本人にバラエティとしての価値があるわけではない(と自分は思っている)ので別に指原がラーメンを解禁しようが恋愛を解禁しようが、ヘアヌードを解禁しようが「そうですか」というだけの話。全てが「そうですかー」の薄味仕様。

 

薄味だったといえば「しくじり先生」の今井華も相当に薄味。ただ今井のしょうもない話を聞かされて終わり。教訓も何もない薄っぺらさ。本当に深夜30分復帰後の「しくじり先生」は味が薄い。「やんちゃ」という言葉で済まされる過去の悪行。そこに本当に反省はあるのかよ。それともAbemaを見れば濃くなるのかな。見ないけど。

 

というわけで昨日のバラエティはどいつもこいつも「病院食かよ」と思うくらい味が薄かった。いまやテレビのメインターゲットである老人向けに味を薄めているんだろうか。自分もこの薄味に慣れなければいけないのか。濃い味が欲しければネットで見ろってか。エロもそうなんだけど、ネットで探せばいくらでもあるものを、テレビという媒体で見るから面白いし興奮するんだろうに。同じことをバラエティでも言う日が来るのだろうか、いや、もう来ているのか。イヤな世の中だな。