じゃあどうすれば、という方法

お笑い芸人キートンがR-1ぐらんぷりの3回戦で敗退したことに対して、SNSで運営側を批判。

 

簡単に言えば「あんなに会場で笑いを取っていたのに、なぜ落選なんだ」ということ。至極シンプルな怒りですよね。昨年のM-1でとろサーモン久保田とスーパーマラドーナ武智が酔っぱらって上沼恵美子批判をネット配信してしまった事件と根底では同じなのかもしれない。審査員のさじ加減ひとつで勝てなかったという恨み辛みである。

 

この手のお笑い賞レースの審査基準はとても難しい。「一番面白い芸人は誰か」というお題目のもと、M-1やR-1、KOCあたりは存在していると言ってもよい。実際そういうつもりで視聴者も見ている。しかしそこには「テレビ番組として面白みがある」という側面も当然ながら存在するわけで、ただ純粋に「面白い」を決める大会ではなかったりするのも事実だ。

 

もちろん参加する側も頭の片隅ではそういうことが分かっていながらも、「ウケていたのになぜなんだ」と悔しさをにじませる。それはある一面では当然で、ある一面では残酷に映る。

 

だから今回のキートンの件も、落選理由を大雑把にいえば「テレビショウ向きではない」という一言で片づけられてしまうのだろう。キートンの長い芸歴であれば「自分がテレビショウ向きではない」ことはそりゃ知っているだろうし、それが理由だってことは分かっているんだろうけど、それでも言わずにはいられなかったのではないか。その怒りはわかる。

 

ただ、問題なのは、キートンが真剣に怒っているのか、そうではないかということ。芸人だから、全てひっくるめて芸だ。だからここでキートンが「怒っている」という前フリをしておくことで、次に何かつなげることを考えているのであれば、全然いいと思う。けど、そうではなくキートンが単純に真剣に怒っているとすれば話が別だ。

 

もし仮にキートンが真剣に怒っているのであれば、自分は「じゃあ作戦を立てるべきだろう」と思う。

 

参加費を払っているとか関係ない。主催者がいて、その主催者が決めたルールに則って参加しているのだから、もし真剣に本当に上に行きたいと思うのであれば、傾向と対策くらい練っても罰は当たらない。お笑い芸人だから「誰もが笑う面白いことをやればおのずと勝てる」と思うのは分かる。けど、そうじゃないことが今回分かったのならば、作戦を立てて「も」いいじゃないか。作戦なんかセコいこと考えずに勝てるならそりゃカッコいい。けど、負けて文句言うんならカッコ悪くても作戦くらい立てればいいの。

 

あのハリウッドザコシショウですら、「裸に黒いパンツは嫌悪感を持たれにくい」という戦略を見出し、そして優勝している。キートンが面白いことは知っている。じゃあその面白さを確実に伝え、そしてテレビで放送したいと審査員が思うようなネタをぶつければいいのだ。もちろんそんなことが簡単に出来れば苦労しないんだけどね。けど、今回そういうことがあったなら、そこに真剣に取り組んでもいいんじゃないかとは思う。

 

もう一つ考えられることは「既存の枠組みが気に食わなければ、自分で枠組みを作ってしまう」だろう。

 

ももいろクローバーZは紅白に落選したとき、早々に卒業を宣言し、そして年越しライブを決行。2年前からは「ももいろ歌合戦」なる企画を主催し、紅白と別の枠組みを作りだした。

 

当時自分は、落選からの卒業は「じゃあどうすれば出場できるのよ、というレジスタンスだ」と書いた。必ずしもヒットを出している人が出場しているわけでもなく、かといって自分たちが落選することに納得がいくわけではない。何を基準に選ばれていたのか分からない。となれば、もう自分たちでやるしかないという結論である。

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落とされた理由が分からない。じゃあもうキートンは単純明快に「当日ウケていた奴が勝ち残る」ピン芸人の大会を主催すればいいのだ。もちろんR-1と同じ規模で行うことは難しい。だから内輪の企画から始める。当日ウケた奴が優勝するんだから、その分かりやすさと明快さに賛同して参加する芸人は少なくないのではないか。この手の大会は回を重ねるごとに権威が増していくわけで、いつの間にかメジャーな大会になる可能性はある。その時に満を持してキートンが「R-1なんかダメだ」と言えばいいんじゃないのだろうか。

 

作戦を立てて再挑戦するにせよ、袂を分かって自分で大会を立ち上げるにせよ、この怒りが次に繋がるのであればいいのだ。ただ怒りをぶちまけておしまい、では残念ながらR-1側は痛くもかゆくもない。怒るところまでお笑い、ならいいけど、そうじゃないなら「怒るだけではない次」を考えてもいいのかなあ、とは思う。

 

脳トレ

まんぷく」をちゃんと見続けています。

 

ようやく即席めんの開発に乗り出した萬平(長谷川博己)。ゴールはチキンラーメンの開発ですから、最終的にどうなるか分かっている安心感はある程度話がもたついても平気なのが強い。毎日地味にちゃんと見ている。

 

それはともかく、東風万智子。読みは「こちまちこ」。

 

この名前でピンと来る人は自分と同世代か自分より上の世代のテレビ好き。この名前でピンと来なくても仕方ない。これは現在の芸名である。旧芸名を真中瞳という。

 

真中瞳といえば「進ぬ!電波少年」で見知らぬ男とふたりっきりでカプセルに閉じ込められ、恋愛感情は芽生えるかという企画をやっていた(結論は「芽生えない」)。それが久米宏の目に留まったのかどうかは知らないが、そのまま「ニュースステーション」のスポーツキャスターになり知名度が急上昇。芸名を現在のものに改めたのが2009年の話なので、実はもう真中瞳時代より長いことやっているわけだ。

 

この出演を受け、ネット上でyahooのリアルタイム検索で「東風万智子」ではなく「真中瞳」が急上昇したようだ。みんな考えることは同じだ。「あの人見たことあるけど、名前なんだっけ」「東風万智子って誰よ」と検索した結果、旧真中瞳であることにたどりつく。こういうのって本当に便利だ。

 

しかし自分くらいのオジサンになると、「意地でも名前を思い出す」となる。オープニングで「東風万智子」の名前を見れば、それが元々電波少年で企画をやっていた女性、というのは思い出す。しかし肝心の「真中瞳」が出てこない。「一時期自分の中で水川あさみとごっちゃになった人*1」は思い出す。そこまで分かっているんだけど、名前が出てこない。刻一刻と衰えていく自分の脳との戦いである。

 

そして自分は「この放送が終わるまでに思い出す」となる。自分の場合1.5倍速再生で見ているので、制限時間は10分(15分÷1.5)。なんとか7分くらいで「真中瞳!」と思い出した。ひとりガッツポーズである。ドラマで出てくる前に思い出して良かった。

 

大抵のことは検索すれば分かってしまうこの時代、敢えて調べずに記憶を辿るという作業はオッサンには必要だ。うっかり同じ本を2冊買ってしまったり、意図せず大きな声が出てしまったりと自分は着実にポンコツの階段を上っている。せめてテレビを見ながらでもボケない訓練をしなければ。とりあえずまだ真中瞳が思い出せる。安堵だ。

 

そう思いつつ明日同じ文章を更新していたらもうダメだな。

 

 

*1:水川あさみのほうが先にデビューしてるんだけど、顔がなんとなく似ていた

センスゼロ

サッカー見てたら、携帯アプリゲーム「覇道 任侠伝」のCMがやたら流れていてとても気になる。

 

これ。

www.youtube.com

 

文字に起こしてみても、まあおかしい。

富沢「何食ってんの?」

伊達「任侠伝だよ」

富沢「食ってんのはコロッケだろ 太るぞ」

伊達「任侠伝やりまくってるから、カロリーゼロ」

富沢「ちょっと何言ってるのか分からない」

伊達「分かれよ」

 

見た目が任侠のサンドイッチマンを起用し、サンド伊達の持ちネタとなった「カロリーゼロ理論」をぶっこみ、さらには富沢の「ちょっと何言ってるのか分からない」まで盛り込んでいる欲張りなCM。しかし欲張りすぎて全体が崩壊している。

 

最初の「何食ってるの」から「任侠伝だよ」で既にもう何言ってるか分からない。富沢の次のセリフ「食ってんのはコロッケだろ」で軌道修正するも、「任侠伝やりまくってるから、カロリーゼロ」でもう崩壊。食ってたんじゃないのか任侠伝。そりゃ富沢が「ちょっと何言ってるのか分からない」と言いたくもなる。最後の伊達のセリフ「分かれよ」と言われても、全てがおかしいこの状況で「分かれよ」と言われても困る。

 

本来の面白さとは到底かけ離れてるとはいえ、今話題になっているからこそ無理やりカロリーゼロ理論をぶちこもうとするのは五千歩くらい譲っていい。しかし何が悪いかって「ちょっと何言ってるか分からない」があたかもツッコミになってしまっているということ。いやCM作った側からすれば完全にボケとして使っているつもりかもしれないけど、本当にこのCMのやりとりが「何言ってるのか分からない」わけで、見ているこっちからすれば完全にツッコミなんだもの。このセリフがツッコミになっている時点で終わりだ。うーん、センスゼロ。

 

最近はテレビ番組を殆ど録画で見るがゆえ、CMも殆ど飛ばしてしまうので、油断しているとこういうすっとこCMを見逃す危険性がある。ノーモア倖田來未

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改めて、気付く

 

嵐が2020年末をもって活動休止を発表。

 

1/27の昼間に唐突に入ったビッグニュース。仕事の休憩時間に携帯を見たら速報で入ってた。今の芸能界の中心であり、ジャニーズの屋台骨でもある嵐が活動を休止するとなると、これはもう色々な面で計り知れない影響があるだろう。

 

とか、いかにも嵐の活動休止が芸能界においてビッグニュースなのかを訳知り顔で書こうと思えば書けなくもない。色々考えることも出来る。「SMAPの影響はあったのか」だとか「ジャニーズはどうなってしまうのか」だとか、あるいは「オリンピックの開会式や閉会式には出てきたりするのか」だとか、「アイドルと結婚」だとか、自分のフィールドに持ち込むとしたら「ももクロちゃんと嵐」とか、まあ書こうと思えばいくらでも何とでも。

 

しかしどうにも考えが浮かんでこない。なんかマジメなこと書こうとか面白いようなこと書いてみようとか、それなりに考えた。しかし一向に浮かんでこない。そうしているうちに改めて気づいてしまった。

 

自分は嵐に興味がないことに。

 

ここの文章を長いこと読んでくれている方であれば、なんとなくお気づきかもしれない。嵐を話題にした文が少ないことに。全くないわけではない。嵐のメンバーが出演しているドラマは見ているし(積極的ではないけど)、バラエティも気になる出演者がいれば見る。しかしこと嵐そのものに視線を向けることはなかった。だって興味がないんだもの。これだけテレビ見てるのに、嵐のメンバー(個人出演含む)のレギュラー番組1本も見てないことにも今気付く。

 

もちろん今の芸能界において嵐がどのような存在であるかは分かっているつもりだし、それを否定するものでもない。ただ、単純に30代のオッサンとして興味がない。テレビ好きとしては若干引け目を感じることはあるものの、だからといって30代のオッサンが同世代のオッサンの集団(という書き方をすると悪意があるように思えるが、もちろんそんなことはない)嵐の活動休止に物凄く動揺するということはないだろう。「明日仕事に行けない!」なんてことはない。仕事行けよと思う。誰に。

 

それはともかく、恐ろしいくらいに嵐活動休止に対する感慨がない。2020年末まで猶予はあるのだろうが、明日活動休止しても自分には何の影響もない。逆に何の影響もなさすぎてちょっと自分が怖い。少しは影響あってもいいんじゃないの、とすら思う。

 

そんなわけで、自分が嵐の活動休止で気付かされたことは、思った以上に嵐に興味がなかったということだけだ。周囲の反応の大きさに対する自分のリアクションのなんと小さなことよ。そしてふんわり思ったのが「これで札幌ドームは潰れるな」ということだけだった*1

 

今回嵐に関して色々な人が色々な言葉でもって色々な感想を述べるだろう。おそらくそれら全ての感想の中で一番低温なのが自分なのではないだろうか。まあこういう人もいるのよ。許せ。

 

*1:札幌ドームを連日満員に出来るのは嵐だけ

呪い

「メソン・ド・ポリス」に橋本マナミが登場しました。

 

広報誌の編集者としてメゾンドポリスの住人に調査を依頼する役どころ。登場するなり住人が鼻の下を伸ばし張り切って調査。同じ依頼をしていた牧野(高畑充希)の時とあからさまに違う態度にあきれる、というお馴染みの流れ。

 

ドラマとしては分かりやすすぎるベタな展開(このあと牧野のことをしっかり立てる展開まで予定調和)で、安心するといえば安心するのだけども、いい加減こういう流れはどうにかならんのか、とはやっぱりうっすら思う。

 

それはともかく橋本マナミ。彼女が画面に登場すると「あー、出ました踏み台女優」と思ってしまう。もちろんドラマによって役どころは様々。しかし大抵の場合「いい女扱いで登場するも報われない」の一言で説明できてしまうんじゃないか。話の本筋を動かすための記号のような役割だ。間違ってもメインで出てこない。

 

橋本のキャッチフレーズは「平成の団地妻」「愛人にしたい女No.1」「国民の愛人」(すべてwikipediaより)など、「そういう役になって当たり前」と言わんばかりのものが並んでいる。もちろんそういうイメージ・雰囲気があってこそのキャッチフレーズであるし、その雰囲気を買ってドラマのキャスティングをしているわけだから、双方ともに何の問題があるわけじゃあない。

 

通常の連ドラは放送時間は正味45分。レギュラーの登場人物ならまだしも、その回のみの出演、しかもその登場人物がめちゃくちゃ重要というわけでなければ、説明する時間がもったいないわけだ。そんな中で登場するだけである程度視聴者が役回りを把握できる存在は貴重と言っていい。

 

でも我々は橋本マナミのイメージに甘えすぎではないのか。

 

このあと「確かに橋本マナミは愛人ヅラではあるが」なんて書き出しで続けててしまおうものなら、これはもう「甘え」そのものである。もちろん「愛人である人」は世の中に存在するし、「愛人をしている人」の統計を取れば「愛人ヅラ」ってのも存在するだろう。しかしそんな統計があるわけではないし(あるのかもしれないけど)、あくまで「愛人っぽい」というのは「イメージされた雰囲気」でしかない。

 

そりゃ世の中には愛人に精通した人がいて、そんな人が「橋本マナミは愛人ヅラです!」と高らかに宣言してくれればいいが、そんな機会なんかない。そうなれば「橋本マナミが愛人っぽい」というのは、全て「橋本マナミが愛人だったらいいなあ」が記号化した、いわば「週刊誌を読んでるようなガッハッハオッサンの妄想」でしかないのではないか。そんなものに我々は甘えていいのか。

 

もちろん橋本マナミを「愛人」たらしめている要素は顔だけではなく、色々ひっくるめた結果である。しかし実は決定的な要素がない(気がする)。けどドラマでは何の疑いもなく「そういう人」という記号として登場する。そういう思い込みを呪いと呼ぶのではないか。間違いなく橋本マナミには愛人の呪いがかかっている。

 

こんな断言をすると、あたかも「じゃあ橋本マナミの呪いを解いたらどうなるか」とか「呪いを解くべきだ」という話に流れると思われたかもしれない。全く違う。別に自分は橋本を呪いから解放したいわけではないし、解放したところで何かいいことがあるわけでもないだろう。分からないけど。ただ自分はここで「橋本マナミは呪いがかかっているな」ということを言いたかっただけで、それ以上でも以下でもない。そして次見たときもたぶん自分は「呪いに今日もかかっているなあ」と思うだけ。

 

 

ぼくのしりあなのむずむず

「スッキリ」にぼくのりりっくのぼうよみが出ていました。引退前最後のテレビで曲披露とかで。なんで音楽番組じゃなくて「スッキリ」なのか、という素朴な疑問はあるけど、まあいいや。

 

正直なところ「スッキリ」も断片的にしか見ていなくて、上記の疑問の理由や引退の理由など、色々語ってくれているとは思うのですが、いかんせんちゃんと見ていない。そして自分はぼくりりに対する知識がそこらへんの犬くらいのレベルでしかない。つまり殆ど何も知らない。名前と顔が三浦大知のそっくりさん(三浦大似とかそんな感じの名前ついてそう)的雰囲気ぐらいは知っているが、それ以上でもそれ以下でもない。だからぼくりりについて語るなんてことは本当は無理な話だ。イントロクイズにおける外国人が初めて聴く曲の鼻歌くらいぼんやりしている。

 

けど自分は彼が引退するという現象の全てをひっくるめて、尻の穴がムズムズするような感覚に陥るので、そこらへんのことをちょっと書いてみたい。

 

彼はおそらく、賢しい。そして賢しいけど、若い。

 

「賢い」でもあるんだろうが、表現として「賢しい」のほうがしっくりくる。完全に「たぶん」の話になるが、彼は天才ではなかったのだろう。それを彼本人が気づいていた。だから簡単に言うと「逃げた」。冷静に自分が見えているがゆえ、創作において今まで繰ってきた手持ちのカードがなくなったことが分かったのだろう。これ以上でもこれ以下でもない話なのだけど、周りの大人はそこにやたら「意味」を問おうとするし、「意味」がついているほうがカッチョイイので、周囲も、そして本人もそこに「意味」をつける。意味なんかない。自分の能力に行き詰まりを感じたからやめる。それだけ。たぶん。何度もいうが、たぶん。違っても「黙れよ説教ジジイ」と言わないでほしい。言ってもいいけど。

 

まだ二十歳なので、そこらへんカッコつけたいじゃないっすか。勃起して10cmしかなくても「俺最大15cmだから」とか言いたくなるじゃないっすか。ぼくのちんちんのかちかち、じゃないっすか。そこらへんの恥ずかしい感じはある程度年齢を経れば分かるもの。けど本人若いから、そこらへん隠しきれてると思ってるんじゃないですかね。いくら「賢しい」でも若さからくるものなので、仕方ない。

 

そしてこれも完全に「なんとなく」ではあるけど、それらをひっくるめて「二十歳にしてこんなこと出来る自分、カッチョイイ」となってますよね。全然かっこよくないんだけど。だってただ逃げてるんだから。本当にその筋で才能ある人はそこから逃げずに戦い、そしてさらに良いものを生み出すのだから。大人は「続けることが一番の才能」と知ってるんだけど、本人とか、同世代の子どもはその逃避に「ぼくりりまじカッケエ」になるんでしょう。新しいこと、独自なことやってる感。そこらへんが若いなあと思う。まあ実際若いからまだマシなんだけど。

 

「いまどきの若者」って言い方はいかにもオッサンなんだろうけど、いまどきの若者に才能をぶち込んで煮詰めるとこんな感じになるんだろうな。自分が進もうとしている道は誰も歩いていない道、と本人は思っているだろうが、細部が違うだけで、彼が歩んでいるのは大枠を捉えれば「才能(仕事)の行きづまりを感じたとき、何をするか」という、至極普遍的なテーマだ。そこに色々言い訳とか理由を「つけたがる」のは、若い。その若さにおじさんのしりあなのむずむずである。twitterに突撃はしないけど、ひそかにニヤニヤしている人間がこういうところにいるのだ。そういうことに気づいたらまた音楽活動やってほしい。才能あるんだから、たぶん。

 

 

 

 

何も知らない自分には、こんな風に見えている。だから以上の文章が完全に的外れでも、それは仕方ない。自分の中で結論している部分なんで「事実と違う」とか言われても困る。そう言いたい人は見下してマウンティングすればいいと思うよ。何の役にも立たないけど。

 

大森貝塚

テレ東ドラマBiz枠「よつば銀行 原島浩美がモノ申す!〜この女に賭けろ〜」を見たのですが、いったいどうしてあんまりパっとしなかった。

 

原作は20年ほど前にモーニングで連載されていた漫画。いまや時代が古い漫画の原作のドラマも珍しくはないので、そこが悪いとは思わない。でもドラマ全体を眺めたときに、なんだか古臭いというか、ちょっと前のドラマを見ているような感じがした。

 

なんだかタイトルで損している。このタイトルから想起されるのは、日テレで放送された杏主演のシリーズ「花咲舞が黙ってない!」だろう。女性行員が不正を見逃さずにズバっとみのもんたや梅沢富美夫ばりにぶちかます。タイトルからはそんな内容なんだろうなあとやっぱり思うわけじゃないっすか。舞台も銀行だし。

 

しかしドラマの中の原島真木よう子)はあまり物申していない。初回で物申したのは同僚に対して福澤諭吉の言葉を引用しつつ「情報は共有する」ということだけだった。まあそのくらいのことは言うよなあ、今の時代なら。原作を読んでいないので大きなことは言えないが、もしこのレベルの話が原作から引用されているのであれば、それはやっぱり「時代が変わった」というしかない。逆に原作をきっちり改変してこの程度なのだとすれば、それはどうなんだろう。

 

いやそれとも「物申す」としていたのは、新規取引先に対して美術財団設立を進めたことであろうか。それは普通に「進言」のような気もするんだけど、そこらへんひっくるめて自分には「どこらへんがモノ申していたのかよくわからん」と映った。タイトルがこのドラマの全貌をぼかしているような気がしないでもない。

 

どうせ割とベタなストーリーなんだから、ガチガチにベタなドラマとして振り切ってしまえばいいのに。経済ドラマだから、テレ東だから、ではなく、ベタでいいじゃない。2つ前のドラマBiz「ラストチャンス~再生請負人~」は結構ベタだった。あのくらい分かりやすくベタでいいと思うんだけどなあ。このままのペースなら、途中で脱落するかもしれんかな、くらいの感想です。