人情か、人間味か

下町ロケット」のスペシャルというか最終話。

 

最後まで見終わって残るのは爽快感ではなく残尿感でした。別に自分の老いを公表しているわけではなく、あれ見終わって何を思ったかといえば「分かりやすい、そして煮え切らない」というがっかりでした。

 

日曜劇場の池井戸潤シリーズは「逆境こそがチャンスだぜ」とピンキージョーンズばりに次々と襲い来る過剰な逆境を克服して深まる絆、そして分かりやすい勧善懲悪で、

「平成の水戸黄門」の名をほしいままにしています。まあ水戸黄門平成も放送してましたけど。それはともかく、分かり易い勧善懲悪ならそれはそれで「まあドラマだしなあ」と思うわけです。そのためには悪役はずっと悪役であってほしいし、しっかり倒されてほしいと思うわけです。水戸黄門で悪代官が更生する話ってあるんだろうか。

 

今回の悪役はギアゴーストの社長伊丹(尾上菊之助)でした。途中まで散々佃製作所の世話になっておきながら、復讐のためにあっさり裏切る。あっさり裏切るところまでは別にいいと思うのです。悪役ですから。しかし最後に都合のいいこと言って助けられてしまう。もちろん話の流れとしてそうなったほうが美しいしハッピーエンドなのですが、それってどうなのと思うのは自分の性格に難があるのだろうか。

 

また、殿村(立川談春)と対立していた農家稲本(To Be Continued)の泣き言に応えて畑の稲全部刈るのも笑ってしまった。いやわかる。分かる分かるよ農家の気持ち(ウエンツ瑛士)。殿村の父親(山本學)が「あいつを助けると思ってなかった」と劇中で述べていたが、それは視聴者全員そう思ったんじゃないのか。稲本都合良すぎるだろ。こういう奴いるけどさ。

 

基本勧善懲悪であり、最終的にハッピーエンドになるのはいい。しかしそのハッピーエンドを強調するために、今まで敵対していた人間に簡単に手を差し伸べる展開はさすがにどうなのか。しかも「悪」を強調するために、出てくる悪役が揃いも揃って畜生じゃないですか。もしこんなに畜生でなければ(単にちょっとイヤなこと言われた、とかなら)、助ける気持ちも分かるんだけども、そうでもない結構な畜生をそんなに簡単に助けるのは、なんか残尿感がある。「人情」の名のもとそこまでされると逆に「人間味」がない。それって本末転倒のような気もするのだけど。

 

別にしっかり懲らしめられろ、とは思わない。けど、必要以上に赦されるのはなんか痒い。続編があるとするなら、たぶん伊丹はまた裏切るし、稲本は平気でトラクター蹴るよ。でもまた赦されちゃうんだね。無限ループ!(粗品風に)

 

 

笑う阿呆に怒る阿呆

ただの山根元会長の話です。

 

年末年始のバラエティに山根明元ボクシング連盟会長がたくさん出ていました。おそらくこれからも出てくるんだと思います。もちろん全て見たわけではありませんが、自分が見かけた山根元会長とそれに関して何か書いてみます。

 

山根元会長といえば「奈良判定」で一躍有名となった人物。分かりやすく「権力を振りかざす人」であり、テレビ的には「これぞ悪の権化」という形で非常にありがたい存在だった。

 

自分ももう少し若ければ、この分かりやすく悪い人に「いやあ悪いよねえ」と言うところなんだけど、残念ながらそこまで若くないので「どうせこの流れでそのうちバラエティに呼ぶんだろ」と思っていた。そして事実そうなっている。先読み自慢ではない。そりゃそうなる、というだけの話だ。

 

世の中は「分かりやすい」を求めている。それは「分かりやすいと分かった気になりやすい」からだ。山根元会長は分かりやすく悪い。悪いのは批判してよい。批判しても自分は悪くならない。だからワイドショーは分かりやすく叩く。もちろん叩かれて仕方ない部分はあったろう。しかし我々はその背景に何があるかを見ようとせずに「悪い」という。もううんざりだ。suchmosくらいうんざりだ。*1そりゃ紅白で「臭くて汚いライブハウスから来た」と言いたくもなる。

 

それはともかく、あれだけ怒りに怒りまくっていたマスコミが、今は山根元会長で笑いを取ろうとしている。最初に自分がバラエティで見た山根元会長は「あらびき団」だった。山根元会長に対して「奥歯ガタガタ言わせ節」でお馴染み(お馴染み?)のふーみんが一喝されて終わるという衝撃映像。これは腹抱えて笑った。フジのお笑い番組「連笑」では「笑わない人」として登場。実際一回も笑わなかった。ハリウッドザコシショウの怒涛の攻勢にも関わらず笑わなかったのは普通に凄い。ただの頑固ジジイなだけだろうが。

 

これに対して「マスコミは本当に節操がない。結局数字が取れればいいのかよ」という批判が出るのは、まあ仕方ないだろう。事実その通りだし。しかし自分はもはや「この批判が出てくるところまでワンセット」とすら思ってしまう。仕方ないよなあ、だって面白いんだもん。「山根元会長が悪い!」と真剣に思っていたのは、所詮ボクシング協会の中の人たちだけで、マスコミを含めた外側の人間は「他人事」なんだもん。

 

その「他人事」の括りの中で、それを最大限に茶化して楽しむのか、自分に都合のいい中途半端な正義と怒りで「自分の」溜飲を下げるのか、の違いだけでしかない。まあ溜飲下げると気持ちいいもんなあ。仕方ないよな。けどその「仕方なさ」は山根会長で笑っていることと同じくらいの価値しかないんだよなあ。

 

以前の自分なら「そっちのほうがしょうもないわ」と、正義ぶっている人間を下に見たんだろう。けどそれは、今述べたように「中途半端な正義と怒り」でしかないわけで、そんなもんやっぱり同類でしかない。だから下げることはしない。下げることはしないけど、等しく「しょうもない」とは思う。どっちもしょうもないんだよ。だったら山根元会長で笑っていたほうが、人生としては楽しい。そういう結論。

 

*1:suchmosの曲「STAY TUNE」の歌詞にそういうくだりがある

さよなら2018年

2018年を締めくくるにあたり、やっぱり有安さんのことはもう一回書いておきたいと思っていたわけです。

 

有安さんとは「ももいろクローバーZ」の元メンバーであり、現在は一般人として生活されている方。有安杏果。とはいってもtwitterinstagramは頻繁に顔出しで更新しており、純粋な一般人というわけではないと思うので、まあ述懐するくらいはいいだろうと勝手に思う。

 

有安さんがももクロ脱退を表明したのが今年の1月15日。まだ今年の話題だったか、と思うと同時に、もう1年も経ったか、という気持ちもある。先日ライブビューイングで見た「ももクリ2018」(ももクロちゃんのクリスマスライブ)では「すっかり4人で違和感のないももいろクローバーZ」としてライブを行っていた。自分も純粋に楽しかった。曲を聴けば「ああここは有安さんが歌っていたなあ」とかは思うんだけど、ライブで楽しむぶんにはすっかり4人のももクロ。元推しとしては薄情なもんだなあとは思う。

 

自分は脱退が発表され、その1週間後にそのまま脱退してしまった有安さんに対して「納得できない」という気持ちをずっと引きずっていた。喪失感は大きかった。しかしまあ本人が選んだ道であり、これ以上どうすることも出来ない現状を考えれば「納得できないことを高らかに表明しつつも見守る」という選択肢が最良なのだと思い、その気持ちをブログに書き殴った。有り難いことに賛同もいただいた。

 

事態が動いたのが3月15日。有安さんの誕生日であることは百も承知だったのだけども、どうやらtwitterinstagramが動き出したという情報が入ってきた。あんな唐突な脱退劇で「芸能活動を一回離れたい」と述べていた有安さんが、自分の誕生日というメモリアルデイであるとはいえ、今後の活動を見据えたかのようにこんなに早くまた姿を現すとは思っていなかったので、やはり動揺した。素直に喜ぶ気持ちにはなれなかった。普通にももクロちゃんたちにも失礼だと思った。詳細は当該記事

仁義なき再会 - 投げヤリズム

に譲るが、当時の自分にはあまり理解できないものであった。正直な自分の気持ちを書いたのだけども、なんか気分を害された有安さん推しが少なからずいたようだ。まあ仕方ないだろう。受け止め方は人それぞれだから。

 

それはともかく、SNS開設後の有安さんは日々「女子的」な活動を勤しんではSNSに投稿するという毎日を送っている。もちろんそれは「目に見える部分」の活動であり、他に何をしているかは知る由もない。紛れもなく一般人である。生まれてこの方ずーっと「芸能人」だった有安さんが、このような生活に憧れを抱き、そしてこの1年実行していることは、彼女が脱退時に語った内容そのものであり、それを全うしていることは、いい意味で「ファンに対して誠実」なのかもしれない。

 

では、彼女は2019年に歌うのだろうか。そして自分はそれを楽しむことが出来るのだろうか。

 

 

 

30日の昼、ブログの移転を済ませ、ここまで書いて自分の手は止まりました。もちろんこの「自問自答」の答えは確実に自分の中にあり、そしてそれを書いて2019年はどうだろう、ということを書こうと思っていたわけです。

 

しかし、それが出来なかった。

 

もちろん書こうと思えばそれは書ける話。ただ、それを書いたところで自分には何か来年に対する希望とか期待とか、そういうものを見いだせるまでのものではなかった。これを自分のブログで発表することに何の意味があるのか。いやもちろんどんな文章を書いたところでそこに意味なんか存在しやしないのだけど、自分が書きたいことがちゃんと書けていないと思えてしまったのだ。それは有安さんにも失礼な話だと思った。

 

そんな中、有安さんは年内最後のSNSを更新した。そこには年内一切触れてこなかったももクロに対する感謝が述べられていた。

 

その一言を自分はどれだけ待ったのだろう。

 

もちろん「色々な事情」があるんだろう。しかし有安さんは脱退以降、あまりに語らなさすぎた。そして語らないことが何かを語ってしまっていた。そう受け取っていたのは自分だけかもしれない。自分は穿った見方しか出来ない人間だ。もちろんそんな人間に合わせる必要はない。だからこれは自分の独り相撲だ。分かっている。しかし、この一言が、たった数行、ももクロと彼女を繋ぐこの一言があれば、自分は2019年に進める。間違いなく、救われた。

 

有安さんはスタンスとして、一切触れないでおくこともできたはずだ。触れることが彼女を過去に繋ぎとめると考えるのであればなおさらだ。しかし彼女は書いた。いい意味で、彼女は2018年とももクロに「別れ」を告げたのだ。時間が経ったことで期するものがあったのかもしれない。今の自分は有安さんのこの「別れ」を最大限の肯定で迎えたい。あれから1年、そして9か月、自分はようやくこの言葉が言える。ありがとう。

 

2018年という1年を振り返ったとき、自分はずっと有安さんの幻影に囚われていたのだと思う。しかし有安さん本人がその呪縛を断ち切ってくれた。ここで前述の自問に答えるならば、2019年、彼女は歌うのだろう。歌わないなんてことがあるか。有安さんは「一般人としての生活」が今年は必要だったはずだ。しかし、2019年は歌う人になる。なってくれなければ。

 

自分の2019年はどうだろう。もっと文章を書きたい。

 

さよなら平成

ブログを引っ越しました。もはやこのブログの歴史なんて自分しか知らないでしょうが、引っ越しついでにちょっと書いてみたいと思います。

 

 

そもそもは大学の課題で「何でもいいからwebページ作りなさい」ってのがあって、そこでつけたタイトルが「投げヤリズム」でした。今やミュージカルスターとしての地位を確立しているソニンさんが「EE JUMP」として活動していた頃、同じグループで活動していたのが、当時トップアイドルだった後藤真希さんの弟ユウキでした。鉄線泥棒の前科持ちとして告白本とか出している人ですけども、当時から素行はバリバリに悪く、1stアルバムが出る前に逃走したりして、活動休止を余儀なくされたソニンさんがソロ活動として裸エプロンとかしていたわけです。活動復帰後に出したシングルが「イキナリズム!」という曲。自分はいまだに聴いたりします。

 

しかしユウキ氏がまた素行不良を理由にクビになり、EE JUMPの活動も立ち行かなくなりました。それを当時大学生の自分は「投げやりにもなるわなソニン」と思っていたわけで、そんな気持ちを込めて「投げヤリズム」と名付けました。至極どうでもいいですね。

 

大学の課題は可もなく不可もなく終わったわけですが、せっかく作ったページなので「じゃあ続けて何かやってみるか」と思ったわけです。当時はずっと日記をつけていたこともあり(これは猿岩石日記の影響)、文章を書くことに抵抗はありませんでした。そこでヒマだからテレビのことを書こうと思ったわけです。

 

当時はwebテキストサイトが勃興していた時期であり、自分も「侍魂」さんなど色々影響を受けました。「テレビのことを書く」という意味では、今でもお世話になっている「テレビの土踏まず」ピエールさんの存在は欠かせません。そして言わずもがなナンシー関の存在。ナンシー関が亡くなってから16年経ちますが、未だにナンシー待望論があるのは、ナンシーの偉大さを感じるとともに、ちょっと情けない気もします。まあ自分も含めた「一億総自分の意見をwebで言える時代」には、ナンシーのような確固たる批評家というのは登場しないのかもしれません。まあそれはいいや。

 

というわけで大学の課題で始めた「投げヤリズム」ですが、大学のサーバーからinfoseekに場所を移し、大学生のヒマに任せてほぼ毎日のように更新しました。テレビ見て言いたい放題(今より相当に酷い)ですから、まあ気楽なもんでした。その一方でアクセス解析も一緒にやってみると、ちょっとずつ読まれている数が増えていくことも分かり、少しいい気になってました。まあ何に対していい気になっているかは謎なんですけども。一番アクセスカウンターが回転していたのがinfoseek引っ越し直前くらいです。もう10年も前の話です。そう考えると未だにわずかながら読んでくれる方がいるというのは不思議なもんです。

 

 長い間無駄に続けていると、「おっ」と思うことが何度かありました。某有名人らしき方からメールを頂いたり(未だに真偽は不明ですけど)、某雑誌にドラマレビューの依頼を頂いたり、某雑誌にブログを紹介して頂いたり。なんか他にも数々あるような書き方をしていますが、これくらいでした。大したことないですね。

 

2回目の引っ越しは「はてなダイアリー」への引っ越しでした。「終了宣言」とか言ってブログの引っ越しをするのはベタすぎる手段でしたが、こんなしょぼいサイトですら「止めてしまうのは悲しいです」などのコメントを頂いて、うっすら悪いことしたなあとは思いました。今頃ゆずもそう思っているはずです。はてなダイアリー引っ越し後は曲りなりにも社会人となり(今でもその自覚は著しく低いですが)、更新頻度も分かりやすく減ってしまいました。数年後には「そんなもん絶対やるかよ」と思っていたtwitterが手軽なこともあって、そちらも併用で呟くことが多くなりましたが、可能な限りはブログである程度長ったらしい文章書きたいなあという気持ちはいまだにあります。

 

そして今回「はてなダイアリー」のサービスが終了するということもあり、また平成が終わるということもあり、この機会にみたびの引っ越しとなります。まあ今の更新ペースと更新内容では「もう閉じてもいい」とは思うのですが、自分としては無意識に続けていることなので「なければないで困る」という感じもするわけです。だからまあ、細々とテレビについて、自分の思ったことについて書いておこうと思っております。元号が変わってもよろしければお付き合いください。

 

ニュースター

「M-1グランプリ2018」の感想をただ書きなぐっておきます。

敗者復活戦

ウエストランド

よかったと思うんだけどなあ。

ダンビラムーチョ

おじさんの設定がもう半回転進化したら凄い。

さらば青春の光

さすがだよ。

ミキ

漫才の勢いとともにタレントとしての勢いを感じる。勝ち抜け。

たくろう

面白かった。ただ漫才に展開があればもっと凄い。

からし蓮根

来年あたりは決勝来るんじゃないかなと。

アキナ

貫禄。

金属バット

突き詰めてほしい。

マユリカ

これからよ。

東京ホテイソン

あんま代わり映えしなかったかなあ去年と。

侍スライス

荒削りでした。

ニッポンの社長

ワード漫才は今やるならあと2捻りくらい必要なのかも。

三四郎

ネタに現役感がなかったような気がする。

プラス・マイナス

渾身だったけどなあ。惜しい。

インディアンス

ひょうきん。


決勝

見取り図

女性の紹介。本筋を進めつつも架空の人物を入れ込むことで違和感を植え付けておいて後程突っ込んで回収するのは少しミエミエだったかなあと。「アタオカ」は去年もやってたけど、うーん定着するのかなあ。とはいえトップバッターでありながら笑いも多く、面白いところは見せつけてくれました。

スーパーマラドーナ

ヤバい人。田中がナチュラルにヤバくて自分は大好き。確かに大会向きのネタではなかったのかもしれないけど、ネタ後の武智が「これが一番のネタでした」と言い切ったところに無念さと清々しさを同時に感じたよ。

かまいたち

ポイントカード。しゃべくり漫才を意図的にぶつけてきた感じ。コントも出来る彼らがしゃべくり漫才をやる必然性はないんだけど、そこにこだわりを込めて戦いを挑んできた野心が見え隠れしているような気がしてしまったんだよなあ。

ジャルジャル

国名分けっこ。もうここまで来るとジャルジャルには頭が下がる。あくまで漫才の本道からはズレているんだけど、それをジャルジャルがやり続けることで「ジャルジャルの漫才」になっているから凄い。テレビ的にもっと評価されていいコンビだよなあ。

ギャロップ

合コン。審査員にも指摘されていたけど、4分で見るネタじゃないよなあ。10分くらい見ているともう笑いっぱなしの状態になるような感じだけに、やっぱり惜しい。あと上沼恵美子の「自虐はダメ」ってことはないと思った。

ゆにばーす

遊園地。去年のような爆発するポイントが出てこなかったのが悔やまれる。川瀬名人は今年も引退を回避できたのでよかったんじゃないかなあ。という感想しか出ない。

ミキ

ジャニーズ。志らくや巨人も指摘していたが、ここにきて昨年の大吉先生の「シャープなネタ」の意味が分かってきた。設定がベタすぎると分かりやすいけど数を見ているとやっぱりちょっと飽きる。特に今年はテレビでもミキの露出が多かったわけで、そこらへんのところもあるのかなあと。

トム・ブラウン

合体。いやあこれは頭おかしい奴ですよね。素晴らしい。自分はどうしてもお笑いにこういうぶっ飛んだ発想を求めてしまうんだな。2本目見たかったなあ。

霜降り明星

豪華客船。ひとつひとつのボケが数珠つなぎのように勢いよく展開。正統派の「しゃべくり漫才」ではないのだけど、ひとつひとつの破壊力が素晴らしく若さに溢れていて、M1ってこういう大会だったよなあと思い出させてくれた。

和牛

ゾンビ。まさに漫才のアーティスト。「殺す」というワードから序盤で不穏な空気を出しておいて、後半できっちり全てを笑いに転化していくところまで全て計算尽くなのだろう。優勝できない、してないのが不思議なくらいよ。


最終決戦

ジャルジャル

ポーズ。貫いたなあ。

和牛

オレオレ詐欺。これも素晴らしいネタ。最後のにらみ合いだけで笑わせるのは圧巻。いやあ本当に優勝してないのが不思議だ。

霜降り明星

学校。1本目の破壊力がえげつなかった余韻を増幅させる出来。瞬間最大風速の違いだったかなあ。


優勝は霜降り明星。今回決勝進出者が発表されたときに「安定感はあるけど、本来M-1が目指していた若いスターが出てくる大会じゃないのかなあ」と思った。しかし一番若い霜降り明星が優勝したことで、その自分の考えを全て吹っ飛ばしてくれた。もちろん芸歴が10年を超えた中堅が売れる足掛かりになるのを見るのも、それはそれで感動があるのだけども、今回のように「若手がスターダムの座をさらっていく」のがやはりM-1の本来なのかなあと感じた。


今年は例年に増して審査員のコメントをしっかり聞いており、そのどれもが的確すぎて、審査に異論を差し挟む余地なんかなかったように思う。個人的な事情として「録画を見る前に優勝者をバラされた」ことを除けば、何の文句もない大会だったと思います。新しいスターが出るのはやっぱり、いい。

紙一重

「ロンドンハーツ」のナダルドッキリを見て「うーむ」と思った話。


「ロンドンハーツ」のドッキリに関して自分は全幅の信頼を置いていて、田村淳という人の悪魔的な追い込み方が為せる芸術だとすら思う。言い過ぎだけど。ただまあそのくらい褒めても構わないくらいロンドンハーツ班のドッキリの構成は優れている。


ドッキリの大オチは素晴らしいのはもちろんだが、何より素晴らしいのはその大オチに持っていくための小さな積み重ね。そしてその積み重ねを行うための細かい気配り。全体としての絶妙なバランス。どの全てが欠けてもあんな芸術的なドッキリにならない。


今回の放送でいけば「ドッキリ」というカテゴリで話していいのかはよく分からないくらいに渡辺直美ノブコブ吉村のドッキリは面白かった。まあこれに関してはロンハー感は薄く、なんだか昔の「Qさま」ドッキリを見ているようだったけども。とにかく面白いものは見れた。


しかしその後に放送されたコロチキ・ナダルの「コンプライアンスドッキリ」はどうだったかといえば、自分は「うーん……」という感想を絞り出すのがやっとだった。理由を書いてみる。


ひとつは「今回はドッキリであったが、ナダルが今後同じようなことを普通にやりそうだ」ということ。そしてそれは笑い飛ばして「面白かったねー」では到底済まされる話ではないこと。簡単に言えば、ネタバラシがオチになってない。今回はドッキリで済んでよかったね、なのかもしれないけど、あんな様子だったら今後も同じことを絶対に、やる。そして自分がそういう類の関係者でテレビを見ていたら、確実に狙う。これはもうドッキリでも何でもない。ただの「カモ紹介」である。これ、実際に自分と同じことを考える人間がいて実行に移した場合、ロンハー側はどう対処するつもりなのか。ほっかむりするのだろうか。また、ナダルが「またドッキリだろう」と思って同じような事態に飛び込んで行ったらどうなるか。あれだけ優秀なロンドンハーツ班がそんなことに考えが及んでいないのか。であればちょっと怖い。


例えば同じ筋書でも、「いつの間にか巻き込まれて結果コンプライアンス違反になってしまって焦る」であればまだしも、自ら積極的に飛び込んで行ったナダルはもう、これがドッキリだとしても普通にアウトなんじゃないのか。放送していいものなのか。もはや自分はそれすら判断がつかない。


また、「ドッキリクラウドファンディング」もあんまり筋が良くない。カンニング竹山FUJIWARA藤本、ロンブー亮から「出資」と称してブランド品や現金を徴収するというもの。ナダルドッキリの小道具にブランド品を使用したり、また徴収した現金を多用したりと、ここもドッキリの脇役として組み込まれていたのだ。


もちろん上記の3人は売れっ子のプロ芸人であるから、このくらいの対応は屁でもない。本人たちも了承の上だから当事者間で問題は全然ないのは自分も分かる。しかし、それを俯瞰で見た場合はただの「カツアゲ」である。「こういうもの」と分かっている人間はいいが、これを見た多くの人間が「ちょっと酷くないか」とならないか。特に良くなかったのは竹山は奥さんとのペアで購入した時計、藤本は嫁からのプレゼントと、「家族に関わっているもの」を出していること。ただの高級時計ならまだしも、家族の品が絡んでくると見ているほうは途端に嫌悪感を抱くもの。本人たちは「それも了承済み」ではあるんだけど、なんかこう筋が良くないなあと見ていて感じた。


ナダルドッキリにしろ、クラウドファンディングにしろ、ロンハードッキリにしては「紙一重で笑えない」ほうに傾いていた気がする。いつもロンハー班はこの「笑えるか笑えないかギリギリのところ」を絶妙のバランス感で笑えるほうに傾けている印象があるのだけど、今回は全部裏目裏目で笑えないほうに傾いていたと思う。今回たまたまそうなってしまっただけならいいんだけど、もしそうでないとしたら、こういう感覚が悪い方に揺らぐのは怖くないか。


もちろんこんなのは自分の好みが大きい。だからある人からすれば今回のドッキリも何の臆面もなく笑えたものだったとは思うし、評価も高いのかもしれない。けど自分はちょっと今回のは全体的に「うーん」と思えた。また次は素直に笑えるドッキリを頼みたい。

プロフェッショナルとは

ジュリーこと沢田研二が自身のライブをドタキャン。


記者会見の姿がカーネルサンダース過ぎて、自分は正直そっちのほうが面白くてちゃんとこの報道について考えていなかったのだけど、なんだかジュリーを非難する声が思ったより多くて驚いております。


もちろんジュリーのライブを見に遠路はるばるやってきた人もいるだろうけども、そもそも全国ツアーで回っているライブだし、近くに来たら見ればいいだけの話。今もってジュリーのライブを見に来るような人間が「生活費を削って田舎からジュリーのライブに!」なんて人は多くないだろう。どちらかといえば余生まっただ中でお金を持て余している層が戯れで参加しているというイメージ。だからまあ基本的には「よくないこと」ではあるんだろうけど、このドタキャンで本気で怒っている「現役ジュリーファン」はいないと思う。だからこの件は本来「まあ、しゃあないね」でお終いだ。


けどなんだか、ことさらに怒りを増幅させ、ジュリーのことを「プロ失格」とか言ってる人がいてこれも驚く。なんでプロ失格なんだろう。自身のライブを楽しみにしていた7000人の人をないがしろにしたからか。まあその点で多少なりとも「非」はあるんだろうけど、もしその「非」がプロの自覚から来るものだとしたら、それはプロ失格なのだろうか。


ジュリーは記者会見で「満員にならないライブ会場でパフォーマンスをする気にならない」という旨を述べている。それが契約の段階でそう伝えられていたのか、ライブをやる条件だったのか詳しい話は知らないけども、少なくともジュリーからすれば「満員になっているホールでこそ初めて自分のパフォーマンスが発揮される」と思っているのだ。それが事実かどうかはともかく、演者がそう思っているんだから、それがいい悪いの問題じゃないのだ。ジュリーのプロフェッショナルの意識の問題である。


もちろん「そんなの言い訳だろ、ちゃんとライブやれよ」という意見はある。それはそうだろう。しかし、「それでもやるのがプロ」という考え方と「それではやらないのがプロ」という考え方に優劣はなく並列だと自分は思うのだ。世間の多くの人が考えるプロ意識とは前者であり、ジュリーの考え方は後者である。ただそれだけだ。だとしたらなんでジュリーはプロ失格なんだろうか。自分の考えに合わない考え方をただ「プロ失格」と罵るのは、それはプロ以前に人間としての何かを失してないか。


実際ジュリーがそう思っているかどうかは分からないけども、大損害が出ることを承知で自分のプロとしての矜持を曲げないために批判を覚悟でその決断を下したのだとすれば、それは紛れもなくプロだろう。それをただのワガママと言うのかもしれないけど、自分はプロだと思うんだよなあ。


NHKの「プロフェッショナル」で番組の最後に「あなたにとってプロフェッショナルとは?」と尋ねるシーンが必ず挿入される。それはNHKが「名言あるある早く言いたい」とRGばりに名言あるあるを狙っているのではなく、プロフェッショナルが100人いれば100通りの「プロフェッショナルの考え方」があると思っているからだろう。だからジュリーが「批判を受けることを覚悟で自身のライブをドタキャンし、気分が乗らないパフォーマンスは提供しない」というのも、ひとつのプロフェッショナルの答えではないのか。まあ長いことアマチュアイズム丸出しの文章を書き殴っている自分が言うことではないんですけども。