元祖名乗るべからず

テレ東の「大食い」において、照英があっさりと司会を降板させられる。


半年に一度くらい放送されるテレ東の「大食い」特番。一時期の大食いブームを牽引し、そして他局の早食いを真似した死者が出たあとの自粛ムードを経てから変わらずにずっと続けている長寿番組。自分を含めた固定ファンは多い。


その「大食い」特番は、2年前の2016年に一大転換期があった。長年大食いの司会を務めてきた中村有志が、体力の限界を理由に司会を退いたのだ。大食いを妨げない司会の腕はもちろん、出場者に「絶妙にダサいニックネームをつける」ことも大食いの醍醐味だった。今ではお馴染み「ジャイアント白田」「ギャル曽根」など、全て中村の作品である。改めて書いてみても絶妙に分かり易く、ダサい。


そんな大事な職務を引き継いだのが照英だった。照英がそもそも持っている熱さを前面に押し出しつつも、中村のダサいニックネームテイストも引き継ぐなど、まだまだ心許ない部分はあったが、照英なりに奮闘していたと思う。


それが今回、司会が高橋みなみにスイッチされた。これは裏切りである。


今回放送された高橋みなみの司会っぷりは「多少うるさいが、こなれたもの」であった。さすがの芸歴である。高橋みなみの好き嫌いを除けば、照英から変更されたところで特に文句が出るような人選でもないように思う。仕切りだけを考えればそのスキルは照英より上だろう。


しかし、この番組は「大食い」なのだ。単に司会が上手いだけでは務まらないのである。なぜなら、大食いの司会には前述したように「絶妙にダサいニックネームをつける」という責務があるのだ。そんなの誰が決めたのか、と聞かれれば「自分だ」と言うしかない。しかしこれは絶対である。大食いの司会である以上、ダサい名前を付けるのは責任であり義務である。それが高橋みなみに務まるか。答えはNOだ。


もちろん照英が中村有志と同じレベルだったとは思わない。そりゃそうだろう。キャリアが違うのだ。しかし照英はちゃんと「中村有志の魂」であるところのダサい名前をつけようとしていた。定着するようなものはなかったけども、そこに魂を感じているかいないかは、30年の歴史を誇る「大食い」にとって何より大事なことじゃないのか。


今回優勝したアンジェラ佐藤も、そして優勝しなかった魔女菅原も、決勝に進んだロシアン佐藤も、全て中村の作品だ。ロシアン佐藤さんは名前の由来である「ロシア人がかぶってそうな帽子」はもう一切かぶっていないんだけど、それでも「ロシアン佐藤」と呼ばれているのだ。中村有志の魂を感じずして何がロシアンだ。


照英を降板させるということは、中村有志の魂も降板させるということ。それは今までついていた中村のニックネームを棄てるということにもなる。だから今回の放送では「魔女」も「アンジェラ」も「ロシアン」も全て使うべきではなかった。もえあずが何の事情で出場しなかったのか知らないが、もえあずと照英とともに、全ての名前は返上すべきだったのだ。


今回番組自体もリニューアルの意識が強かったようで、ブーム終了後名乗り始めた「元祖!大食い王」の名前を変更した。照英の降板もその一環なのだろうよ。しかし自分から言わせれば、番組は自ら「元祖」を名乗らなくなったのではない。中村の魂を継承した照英と共に「元祖」を棄て、「元祖」を名乗る資格を失ったのだ。


歴代のレジェンドを出場させ、アンジェラ佐藤が優勝した。そんなアンジェラももう40代。菅原さんは50代だ。とても大食い新時代などと言ってる場合ではない。この先番組はちゃんと生き残るのだろうか。「元祖」とともに番組が消滅しないことを願う。百歩譲ってたかみなはいてもいいから、ちゃんとその横には照英を置くべきだ。

そこは早押しじゃあ

高校生クイズ」の感想を。


昨年までの「海外でカップルがイチャイチャキャホー」を推奨するウルトラクイズラシックスタイルは終了し、今年からは「地頭力」(じあたまりょく)を競うクイズに変更。いわゆる「脳トレ」のような問題やパズル系の問題、発想力やそこそこの体力を競う簡単に言えば「クイズ研究会があんまりやってこないクイズ」形式に変更された。そしてしれっと3人1組に戻された。海外行かないから2人でも3人でもいいんだろう。


とはいえ、この形式は「従来高校生クイズがやっていたもの」であり、長いこと高校生クイズを見ている側からすれば「こういうクイズをやってこその高校生クイズ」だと思っているけども、実際参加した高校生や、これを見ていた若者、そして「クイズオタクどや顔甲子園」時代のスターことクイズ王の井沢氏はどう思ったのだろう。


問題は総じて悪くなかった。法則性を考えながら穴に落ちないように先に進んでいくクイズは、答えが見えてしまえば簡単に勝ち抜けるし、また分からなくても運の要素だけでも先に進めたのも面白い。実際法則性が分からなくても勝ち抜けたチームもあり、そこで見せ場が生まれたのも良かった。やっぱり高校生にキャラクターがあるのはいい。


「タイヤを短時間で運ぶにはどうすればよいか」とか「風船を短時間で割るにはどうすればよいか」とか、地味に体力に訴えるものも多かった。多かったのだけど、「知恵を絞れないなら体力でカバーする」というスタンスであるし、最終的にはちゃんと「そもそもクイズが強いところ」が残ったのだから、これでいいのだと思う。欲を言えばもう少し女の子が粘ってほしかったのだけど、まあこんなもんだろう。


優勝したのはクイズ界隈では有名な東兄弟を擁する桜丘高校。「どや顔甲子園」時代の負の遺産である「高校偏差値を示して頭の良さを示す」制度がまだ残っているのだけども、桜丘高校は決して偏差値的に高い学校ではないので(50を切っている)、逆に「彼らがなんかよく分からないけど凄い」ことになっていた*1。あれもうやめませんか。何のための「地頭力」アピールだったのか。まあ「地頭の良さ」と「高校の偏差値」には正の相関関係はあるだろうから、無意味とは言えないんだけど*2、結局「偏差値高い学校には勝てないのかい」となってしまうと、それはダメでしょうよ。桜丘高くないんだけど。


全体的に悪くなかった今回、一つだけ思ったのは「さすがに普通の早押しクイズもやってあげるべきだろう」ということ。もちろん決勝の問題の「壁をよじのぼる」も悪くなかった。想定している答えではなく強引に壁をよじ登ったのも面白かった。しかし、「全然興味ないけど引き受けた仕事」感満載だった千鳥ノブ風に言えば「そこは早押しじゃあ」だろう。決勝まで残ったんであれば、クイズ研究会は活躍する場所を与えられてもよくってよ、じゃないか。特に「そういうクイズを望んでいる人たち」は怒っているんじゃないだろうか。ただ、「そういうクイズを望んでいる人たち」が参加できるクイズ大会はたくさんあるし、高校生の分母に対してほんの僅かであるということ。どちらを取るのがテレビ番組として得策かは言うまでもない。けどまあ礼儀として「普通のクイズもやるべき」だったとは思う。


というわけでクイズ王井沢氏は不満に思ってしまうかもしれない今回の高校生クイズだったけども、個人的には「こういうのであるべき」だと思っているので、普通に楽しみながら見ることが出来ました。今年の高校生クイズが果たすべき役割は「これならクイズ研究会じゃなくても勝てるチャンスはある」と思わせること。そして何より「参加したら面白いんじゃないか」と思わせること。来年以降少しずつ参加者が増えていけばいいと思う。少なくとも北海道予選をSTVホールでやってるうちはまだまだ復活とは言い難い。モエレ沼公園真駒内公園でやっていた自分たちの頃まで参加者が戻ることを切に願う。

*1:実際東兄弟はどちらも鹿児島ラ・サールからクイズのために転入している。それもよく分からなくて凄いが、個人的には「むさ苦しい男子高よりも、イチャイチャキャッキャで優勝した昨年の桜丘高校に憧れてしまった」に一票

*2:ちなみにただの「クイズオタクどや顔甲子園」の場合は偏差値は無意味だと個人的には思っている

どっちのアキ子ショー

北海道は依然として余震が続いておりますが、とりあえず生きてます。


「全力!脱力タイムズ」は毎週面白くて楽しみな番組のひとつです。今週は土屋太鳳とよゐこ濱口の回。後半で濱口いじりとして和田アキ子のモノマネ芸人であるMr.シャチホコが登場。和田アキ子コントを繰り広げて笑いをさらっていった。


シャチホコの凄いところは「耳で聴いていると殆ど和田アキ子」なところだ。イントネーションと抑揚が本人のそれと同じ。もう少し声が大きいと完璧なのだけど、ここまで完成度の高い和田アキ子は今まで存在しなかったと言ってもいいくらいだろう。


ただ個人的にはひとつ気になることがある。それは「このまま和田アキ子をどっちの方向で突き詰めていくのか」ということだ。完全に余計なお世話なのだけど、ちょっと書いてみたい。


まず「どっちの方向」というのは、モノマネにおける「デフォルメ」と「リアル」における話だ。デフォルメってのはモノマネをしながら、そこに何か一つ乗っけて面白さを生むタイプ。コロッケに代表される、いわゆる「モノマネ芸人」はこちらにあたる。その一方で「リアル」タイプは、面白い面白くないではなく、もうとにかく似ていることを追求していくタイプ。イチローに対するニッチローがこれ。


現時点でMr.シャチホコのモノマネは「どっちつかず」な感じがする。以下検討。


シャチホコが和田として登場した場面と、「あの鐘を鳴らすのはあなた」を歌う場面、ともにシャチホコは「和田がノリノリのときの手首(byエハラマサヒロ)」をやっていた。もちろんこれって分かりやすく面白いし(まあエハラの発見だと思うんだけど、そこらへんはまあ置いておく)、和田であることを分かりやすくデフォルメした動きなんだけど、そんなに普段やる動きじゃあないわけですよ。だから「リアル和田アキ子」だとすれば、それは連発すべきではないし、「デフォルメ和田アキ子」であれば、多用すべきなんだろう。


また「あの鐘を鳴らすのはあなた」を歌うときに体を激しく左右に揺らしていた。これも「デフォルメ和田アキ子」としては正しい動き。「古い日記」などを歌う和田ってそういう動きをしているイメージがある。けど「あの鐘」を歌うときの和田は体を動かすことはない。どちらかと言えば直立で歌う感じ。これも「リアル和田」としたならば正しくない動きだ。


さて、今後シャチホコ和田はどちらに進むべきなのか。もちろん「モノマネ芸人」であるとするならば、和田らしいところを強調し笑いを生む「デフォルメ」をするのがいいと思うのだ。だから今やっていることは間違いじゃあないと思う。しかし個人的には「もっと本人を突き詰めた上で、デフォルメ的なことをするのではなくそのままをコピーしたほうが面白い」と思うのだ。


和田アキ子のモノマネをする芸人は珍しいわけではない。特徴のある歌い方や振る舞いはデフォルメの対象としては分かりやすく、モノマネしやすいということがあるんだろう。しかしMr.シャチホコのモノマネはそこらへんのレベルをひとつ突き抜けて「ほとんど本人」なのだ。だからこそ、安易にデフォルメに走るのではなく、「もう和田じゃねえかよ」ってレベルまで本人であることを突き詰めていけば、ただ和田なだけなのに面白いということになるんじゃないだろうか。ていうか、今のレベルが既にその段階に半分足を突っ込んでいる。だからこそデフォルメがなんか余計に感じるわけだ。


和田アキ子っぽいことをするのが面白い」ではなく「和田アキ子であることが既に面白い」。自分はそう思うので、余計な味付けをせずに、ただ淡々と和田アキ子をやればいいんじゃないだろうか、というのが余計な提言なのですけど。まあいいじゃない。

ちょっとだけ、被災して

9/6 3:07

初めは、小刻みな揺れだった。ガタガタ鳴り始める本棚のガラス戸。あまり聴いたことのない音になってきて「おや、これは大きい地震なのでは?」と感じ始める。すると同時に携帯電話が鳴り始めた。

地震です」

知っている。今揺れてるんだ。後に冷静になって気付くが、緊急地震速報震源からある程度離れていないと地震が到達する前に鳴らない。ということは、震源がよっぽど近い場所だったのだ。それはともかく、今までに体験したことのない揺れ。部屋に積んでいる雑誌の山、本の山が雪崩のように崩れ始める。


同時にまだ状況が飲み込めない自分は「あ、本棚倒れてきたら無傷じゃ済まないな」と思う。「逃げなければ」と思うが、体がついてこない。幸いにも本棚が倒れてくることはなかった。揺れが収まり、ようやく意識がはっきりする。部屋の中は本が散乱しているが、ガラスが割れているなどの被害はなさそうだ。足元に気を付けながら家の中を見回す。食器棚からガラスのコップや茶碗が落ちて割れているくらいで、あとは大きな変化はなさそうだ。まだ電気もついているし、とりあえず状況が分からない。テレビをつけて速報を待つ。と、その時電気が全て消える。

9/6 3:20頃

家じゅうの電気が一斉に消え、停電だということに気づく。当然テレビはつかない。何も情報を得る術がなくなってしまった。携帯電話もろくすっぽ充電しておらず(60%そこそこだった)、ここで携帯の電池を無暗に使うわけにはいかない。考えているうちに、部屋にしばらく使っていなかった携帯型のラジオがあることを思い出す。電池もちゃんと入っており、作動。どうやら震度6強(後に7に訂正)の地震が起きたらしいことが判明。「こりゃあえらいことになったな」と思いつつ、真っ暗で何も出来ないので寝ながらラジオを聴く。

9/6 5:00〜9:00

夜明け。天気も良く、カーテンを開ければ不自由なく動ける程度に明るい。停電で中途半端になっていた割れたガラスの処理、自分の部屋の崩れてきた本の後片付けなどをこなす。職場からの連絡はない。この時点で水道もガスも通じている。水道は「断水されている」という情報もあったが、自分の地域では大丈夫そう。とりあえず水が使えるというだけでかなり安心感はあった。報道を見た道外の知人、友人から安否を尋ねるLINEがちらほら届き始める。こういう時に連絡をくれる友人は本当にありがたい。くれない人だって心配してくれているとは思うが、安否を尋ねるメールやLINEはその時返信できなくても皆心の支えになる。過剰な連絡でなければ送るべきだなあと受ける立場になって初めて感じる。

9/6 10:00〜12:00

ラジオを聴きながら断続的に居眠りを繰り返す。地震発生時点からそこまで不安視をしていなかった自分はここまで寝ては起きての繰り返し。もちろん余震は充分に考えられるし、緊迫した状況が続いてはいるのだけど、自分の身ひとつしか守るべきものがない30代のオッサンはこういう時に実に呑気なもんである。食料も家にそこそこあったし、水は出る。電池も買いためたものがあるし、LEDの電灯もある。それゆえの安心感だったのかもしれない。立場によってはもっと深刻な状況ではあるんだろうが、この午前中の時点で「何か買いに行こう」という気持ちは全く起きなかった。そもそも停電も昼くらいを目途に回復すると思っていたし。ここだけが甘かった。供給量に対する需要量の過剰により、全道一気に停電。仕方ないことではあるけども、電力会社の見通しの甘さの指摘もやむなし。これが冬だったら被害は計り知れない。

9/6 12:30〜

職場の上司と連絡がつき、自動車でとりあえず職場に行くことにする。携帯の電池も少なくなっており、自動車であれば充電も出来ることもあり、行くことに躊躇はなかった。そもそもこの時点でもう何もやることがなかったからだ。そこそこ汗臭かったのでお湯の出ないシャワーを気合いで浴びて、着替えて職場へ。


この時点では電気の復旧もままならず、信号も殆ど消えている。こういうときには互いに慎重に運転することもあり、逆に信号でずっと止められるということもなく割とスムーズに職場まで。こういう時に普段から運転しており、信号の少ない道を知っているのは役に立った。


職場で上司と合流。当然のように仕事は休み、自宅待機に。事務所は驚くほどに何事もなく、とりあえず安心して帰宅。帰宅途中に札幌中心部である中央区は電気が一部復旧しはじめ、明かりのついているコンビニや間引かれて主要道路のみついていた信号が少しずつ復活し始めていた。これを見て「ああ、今日中にはなんとかなるんじゃないか」と少し安心する。これもまだ甘かった。

9/6 14:00〜

帰宅しても相変わらずやることはない。まだ明るいうちなら読書が出来ると思い直し、読んでいなかった文庫本「人生エロエロ」(みうらじゅん)を読み始める。地震に被災している人間が読むにはいささかエロが過ぎる内容。「295万戸が停電」とかいう放送がラジオから聞こえてくるたびに「ほう、295まんこ…」と思うくらいにはどうかしていた。本当に被災で苦しんでいるや困っている人がいる中、自分はこんなこと考えてました。心配してくれた方がいるならば本当に速やかに謝りたい。あと断水情報を聞くたびに「断水ぃんオールナイト」ともんたよしのりばりに歌っていたことも謝りたい。

9/6 17:00〜

少しずつ太陽が沈み始め、暗くなってくる。どうやら日が昇っているうちの電気復旧が無理くさいことに軽く失望しつつも、暗くなってからでは調理が出来ん!と思い、停電で冷蔵能力が落ち始めている冷蔵庫から死にかけの鶏肉とレトルトのトマトソースを合わせて簡易版鶏肉のトマト煮を作る。ガスも水道も使えるから、そこそこの調理ならば出来てしまうゆえの結果。

9/6 18:00〜

いよいよ日も沈み、暗くなる。本を読むにも厳しいので、あとはもうひたすら寝ながらラジオを聴くだけ。そして聴いているうちに断続的な眠り、の繰り返し。1時間おきくらいに寝ては起きて、を繰り返す。色々見ることが出来なかった番組のことが頭を過る。けど素直に諦める。

9/7 1:00〜

6日中にやはり電気は復旧せず。寝ながら落胆。そして「おぎやはぎのメガネびいき」があまりに通常放送すぎて「こっちは電気もついてないのに…」とか思いながら、その一方であまりの下らなさに思わず笑ってしまう。こういう時はやっぱりこっちのほうがありがたい。

9/7 8:00〜

携帯の充電が2%を切ったので、いい加減充電しなければと思い、通電しているであろう職場へ向かう。十数分で職場に到着。思った通り通電しており、誰もいない職場で携帯を充電しながら携帯ゲームに興じる。誰もいないし快適。久々に快適。不謹慎と思いつつも快適。

9/7 11:00〜

職場そばのスーパーに「なんかあればいいな」と軽い気持ちで突入。どうやら開店して間もなかったようで、商品は豊富。混み具合もそれほどでもなく、案外すんなり朝飯代わりの食料を確保。ありがたかった。呟きもしたけども、過剰な買いだめをする人もちらほら。物流が途絶えているわけではないので、そこまで買い込まなくてもいいのでは、とは思った。

9/7 12:00〜

いったん帰宅し、改めて出社。どうやら今日から通常営業に戻るとのことで、若干引きつつも通常業務へ。やる気はないけど、ムダにたくさん寝たのでムダに元気なのがなんか腹立たしい。

9/7 18:00〜

自宅から電気復旧の連絡。一安心。実に40時間ぶりの復旧。長かったけど本当に安心した。正直なところ電気がなくて困ったのは冷蔵庫の中身くらいではあったが、それでも回復したと分かるのはほっとする。しかしその一方で「電気はなくても他がちゃんとしていればまだなんとかなる」ことも分かったのは大きい。そもそもネット依存じゃなかったんだな自分はと少し安心した。


電気の復旧に関しては他の地域が次々と復旧する中でなかなか回復せずやきもきした気持ちがないわけではなかった。しかし「自分のところは水もガスも通じるし、まだマシなほうだ」と言い聞かせることで我慢するしかなかった。こういう時は周囲と比べて恨み言を言うのではなく、周囲と比べて自分たちがまだ我慢できるところを探すべきなんだろうなあ、と感じた。

9/7 22:30〜

仕事を終えて帰宅。「チア☆ダン」が無事録画されていることに安堵。電気がついていることにも安堵。現在に至る。



……とまあ、自分の「ちょっとだけ被災体験」を書き並べてみました。「ちょっとだけ」と書いたのは、震災の被災者は本来こんな生易しい状況ではなく、電気以外は使えていた自分は「被災した」うちに入らないのでは、という思いからです。だから「被災体験」としてはあまり参考にならないかもしれない。しかしその一方で「この程度の被災だったらどうにかなるや」という謎の楽観があったからこそ、「ちょっとだけ」と思えたのかもしれない。物事をあまり深刻に捉えるのもこういう場合は得策ではないですし。


実際40時間の停電は結構しんどい。自分のようなテレビ人間にはテレビのない生活も多少堪える。しかし堪えるだけで死にはしないのだ。人間生きていればまたいいこともある。こういう状況ではこういう気持ちも必要なのだろうなあ、と珍しく前向きな気分になった自分がいたのでした。


ただ、今もって停電やそれ以上の深刻な状況にある世帯も多く、また大きな余震、本心に類する大きな地震がいつ来るとも限らない。決して油断は出来ない状況ではあります。でもだからこそ、そのような状況からはちょっとだけマシな自分のような人々は、余計に暗くなることを避け、いつも通り笑っていたほうがいいんじゃないかと思いましたとさ。

その言い訳に本音がある

田中義剛週刊新潮に「生キャラメルは全機械化されており、全然手作りじゃない」とすっぱ抜かれ、叩かれる。


週刊新潮爆笑問題太田の件があるので、全然応援はしていません。むしろ今すぐなくなっても困らないくらいです。一方の田中義剛は自分にとって「観察すべきもの」であり、彼がいくら儲かろうが叩かれようが、自分は一定の距離を保ってただひたすら観察する。そういう対象なので、どちらの肩を持つとかそういうことではないのです。ただ、こういう記事が出た以上ウォッチャーとしては検証せざるを得ないのです。台風で日本が大変な時期に。


週刊新潮の記事を大雑把にまとめると「やたら手作りを謳っている生キャラメルだけども、今年の3月からは「回転式万能練機」と呼ばれる機械を4台導入し、今は一切手炊きで行われていない」というもの。チーズに関する記述はとりあえず省略。


この疑問に対して義剛は何と答えたのか。新潮の記事を引用しながら、検証してみたい。

回転釜は4台入っています。(画像を見せて)これが機械で、銅釜5台分くらい入って、下が火です。フルオートなら、人の手をかけずにと言うこともできますが、うちは違う。火加減はみな手でやっています。そうでないと焦げたり、仕上げの時間がまちまち。


新潮はこれに対して「火加減さえ手動ならそれは手造りっていう主張は無理があるんじゃねえの?」と返す。自分もそう思う。

「これが手造りなら、たとえば世界中の自動車も、1台残らず手造りということになってしまうが」

なんてツッコミまで入れられている。その通りだろう。ただ自分はこのくだりよりも、この後の発言に注目したい。

“手造り”という表記に関しては、コンプライアンス上の決まりがあるわけではない。

これが義剛の本音である。「手造りという表記に決まりがあるわけではないんだから、自分がこれを手造りだと思えば使っていても問題がない」と。しかし義剛ウォッチが長い自分は断言してしまうが「こういう言い訳を思いつけば、何か言われてもこう切り返すことが出来るからギリギリセーフである、ということを分かって続けていた」のだ。こういうところが自分は決定的に嫌いなのだ。普段は商売に対して正直であることを売りにしておいて、いざとなればこういうやり方で逃げる。醜い。本当に醜い。


よしんば義剛が普段から「多少強引なやり方をしてでも、目標のためには手段は問わない」的なスタンスで拡大路線を徹底していれば「まあそういうやり方もあるのかもしれない」と思えたりするのだ。しかし義剛は普段そういうことは絶対に言わない。けどこういうことをする。しかも自覚があって、である。刑法上では詐欺ではないんだろうが、心情的には充分に詐欺だ。


もっと言ってしまえば、今更生キャラメルが手造りだろうが全機械化だろうが、味さえ変わらなければ文句を言う人なんてそんなにいないだろう*1。もはや生キャラメルに誰もそこまで注目もしていない。だから正直に「従業員の負担を減らすためにも、機械化に成功しました」くらいの言い訳でもって機械化したことを普通に言えば良かったのだ。しかし義剛はそれが出来ない。なぜなら「手造りって言っておいたほうが儲かる気がする」と思っているからだ。間違っても「火加減さえ見ていれば手造りの要件を満たしている」からではない。無理があることは本人が一番よく分かっている。けども、弁護士と相談したうえ「法律上“は”問題がない」ことが分かれば、そのまま手造りを謳う。いやあ、信頼できない。


これですぐさまチーズの需要がなくなったり、急に生キャラメルが売れなくなったり、経営が傾くなんてことはないのだろう。しかし普段から義剛に興味がない方々にも、今回の報道で「義剛の商売は基本胡散臭い」ことがバレてしまった。最近分かりやすく調子に乗っていたので、これで義剛もまた「反省したふり」モードに戻るのだろう。ウォッチャーとしては一安心だ。まあ義剛のこういう性根は死ぬまで直らないので、義剛が調子に乗るたびにこういう牽制球を投げていくしかないのだろう。


台風で全施設吹っ飛んでしまえばいいのに。

*1:実際味が変わっている、という証言を記事内ではしているけども

物心ついたときから

菅井きん死去。92歳。


自分にとって菅井きんとは何だったのか。二つほど書いてみたい。

気付いたときには既におばあさん

自分が「菅井きん」という女優を認識したのはいつだろうか。wikipedia先生でざっと確認したところ、おそらくは「ウッチャンナンチャンの誰かがやらねば!」だろう。コントの中に登場するおばあさん、という認識だったと思う。


30年くらい前の話なので、当時の菅井は既に60代なので「おばあさん」と言えばそれはそれで間違いない。しかし今の60代の女優をざっと検索してみると「大竹しのぶ」だとか「かたせ梨乃」だとか「余貴美子」だとか、そりゃあまあ「おばあさん」と呼ぶにはちょっと若々しい人たちの名前が出てくる。年齢的には「おばあさん」かもしれないが、いわゆる「おばあさん」ではないのだ。


それに対して当時の菅井きんは、もう既に「おばあさん」だったのである。いわば自分にとって菅井きんは「物心ついたときからおばあさん」だったのだ。今そういう人ってあんまりいない気がする。


自分にとっての「物心ついたときからおじいさん」と言えば桂歌丸だった。その歌丸も今年亡くなった。なんかちょっと思うところはある。

菅井きん前田吟

自分にとっての菅井きんとは、前田吟とセットになる存在だった。というのも、「ビートたけしのつくり方」という番組が25年ほど前に放送されていたわけだが、その中でベートーベンの「運命」に乗せて「菅井きーーん」「前田ぎーーん」と両者の名前を連呼して終わる、というシュールにも程があるVTRが流れていたのだ。


自分にはその印象が鮮明すぎて(当時小学生の自分にはあまりにも意味が分からなくて。ちなみに今でもよく分からない)、菅井きんとは「前田吟と対をなすもの」でしかない。「でしかない」って言い方はアレなんだけど、最終的にはそうなる。何はともあれ、合掌。

時代が時代だ

市民団体「日本からパワハラを撲滅する会」は8月22日未明、コメディアンの萩本欽一氏(77)に対し、20日深夜にNHKで放送された「欽ちゃんのアドリブで笑」において、同番組出演者に対するパワハラがあったとの見解を示し、これを公表した。同団体はさらに萩本氏に対して今後同じようなパワハラが行われないように意見書を提出するとの考えを示した。


同団体によれば、出演番組である「欽ちゃんのアドリブで笑」において萩本氏が出演者に対して、萩本氏が突発的に思いついたことをやるように要求し、「大将」と呼ばれている萩本氏の芸能界の強大な立場から、出演者がその要求を断れないような状態に仕向けたとしている。また、萩本氏は出演者の演技や行動が気に入らないと、その都度萩本氏の指導が入り、その指導内容が出来るまで執拗に何度も同じことを繰り返すということをさせていたとも述べた。


同番組の出演者であり、パワハラの被害者とされる川島省吾氏(41)(芸名:劇団ひとり)は、同番組の終盤で、「くたばれクソジジイ」と叫び、パワハラの被害を訴えた。他にも番組内で澤部佑氏(32)も同じような被害を受けたことを示唆し、また田中美佐子氏(58)はかつて出演していた番組でも萩本氏からパワハラの被害に遭っていたことを告白し、長期にわたってパワハラの被害に遭っていたことが明らかになった。


同番組は「“視聴率100%男”欽ちゃんが、普段テレビを見ない“テレビ0%”の若者に、あの手この手でテレビの面白さを拡散」するために企図され、放送されたのだが、萩本氏がかつて得意としていた「演者を追い込んで追い込んで、その追い込まれた演者の思わぬ面白さを発揮させる」という手法は、現代の日本にとって、現代の若者からすれば紛うことなきパワハラにあたると感じられたようだ。面白さを伝えようとしたつもりが、実に皮肉な結果である。


団体の一連の発表を受け、萩本氏はコメントを発表した。コメントは以下の通りである。


「なんでそうなるの!」